ありふれた事件

  

 

 

 

 

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ありふれた事件 #70

クラナドもリアライズも終わらせたが、キャシャーンを観たので先にその話をするんだが、先に書いておくと面白かった。つまらないものをつまらないと書いたり、面白かった作品にあそこが変だとか言っていると、俺はなぜかいつも辛辣な意見ばっか言ってるみたいに言われるんで、すげーうぜーと思っている。俺は面白いモノにはつまらないものをつまらないと書くのと同じ情熱を傾けて面白いと書いているのに、そういうとこは何頑張ってるの? クスみたいに言ってて、辛辣なことを書いたときだけ面白いねとか言ってる連中をニーツオルグの俺は100%嫌いだ。

話が逸れた。暗い映画だというのが全体的な感想で、だがしかし先日飯田橋で飲んだときに聞いた話で想像したほどつまらなくなかった。むしろ観てよかった。でも観ていて物語とは別の部分で辛くなった。

オープニングシーンで思ったのはFF7に似ているということだ。空から長回しでスラム化したいかにもサイバーパンクって感じの街にカメラが降りていって列車とすれ違うってそのまんまだよな。当然だが俺はパクリだとかそういうことが言いたいんじゃなくて、なんかこう、CGだからできましたというものを見せられたなという感じ。荒廃したサイバーパンク、飛び交う旧字体の漢字、未来の話なのに木製のカメラ、これはファッションなのだろうか。レトロフューチャーを超えて今、懐かしくて新しいサイバーパンクが旬ですか。イノセンス! アップルシード! という感じで気になった。

目を惹く要素としてファッションが導入されるのは俺は全然構わない。でも、カッコいいかよ? これ。俺はキャシャーンを批判したいんじゃなくて、最近よくある何の意味もないサイバーパンクが何かすげ気になる。特に、それを持ち出しながらも、我々にとっての現実を問う内容ばかりだということに疑問を感じている。ファッションはリアリズムじゃないってのは当然分かってるはずでしょ。マトリックスはあるひとつの現実を問うオリジナルだったが、キャシャーンも含めて、ほかのは一体何なんだろうか。

俺はどちらかというとサイバーパンクが好きだと思うので、それ自体がヤだってわけじゃない。でもそこばっかりに僕らの現実についての問題があるわけじゃないのに、そればっかりやる意味が分からない。ばっかりだよ。そして話は戻るが、そんなのFF7じゃないか。2じゃないプレステでスクウェアのヒゲが喜んで作ってたようなソレですよ? 俺はFF7が大好きだが、今すごくオシャレに見えますか? 「新しくない」サイバーが。ブレードランナーが、ともちょっと違うでしょ?

あーもう説明するのが非常に難しいのだが、でさ、そういうファッション的なサイバーパンクの中で、民間人をバカバカぶっ殺す兵隊がいっぱい出てきて、何の意味もなく人が死んでいって、それをアタマ30分ぐらいさらっと見せた上で「お前は本当の戦争を知らない! お前は本当の戦争を知らない! お前は本当の戦争を知らない! お前は本当の戦争を知らない!!!!!11ぬぬぬんn」とか言われてかなり閉口した。お前もだろ。キミも本当の戦争なんて知らないじゃないか。俺だって知らないけどさ。もちろん自分で作っててそう思って、とっても辛くて、だからこそ兵士にバンバン民間人を殺させてみてみんなブキ持って戦うってどういうことか知らないよねって言おうとしてるわけだけど、それってすごく辛そうでかわいそうな手段なんだけど、ダメだと思う。そういうことをやる、のに、僕もホントは戦争知らないんだよと思ってる部分が見えている、つーか見せている、と、いうのは、矛盾が一番イヤな形で露呈するやり方だと思う。それは甘えだ。心がとても優しすぎる。ホントの意味で高みに立ってモノが言えてない。優し過ぎるからこそ、お話の中で殺した人はムダに死んでるんだ。そうなるとファッションはその上を踏みにじっていくように見えてしまうんだ。

市街戦のシーンではずっと「フルメタル・ジャケット」のことを考えていた。やらなきゃお前がやられるとかギャンギャン叫んで、スローモーションだか無音だかで女子供を殺すのは極めて日本のテレビドラマ的な演出だ。絵がじゃなくて情念が。テレビドラマが悪ではないが、この話でやることじゃないと思う。一定のキモチを伝えるためにほとんどわざとやってるんだと思うけど、そういうところでテレビドラマ的になるのは違う。

しかも後半でその兵士が妻と子供の恨みを晴らしたかったんだみたいなことを言うのはズル過ぎる。フルメタル・ジャケットでもギャンギャン叫びながら人殺ししたがるよく似たキャラクターが1人出てくるが、「よく女子供が殺せるな」「簡単だ。動きが鈍いからなギャハ」 とか言う彼が怒り狂いながら味方に機銃を突きつける様は、本当に撃ちそうな悪夢のようなプレッシャーを感じる。それが怖いのは、「彼がおかしくなってる(でもホントはいい子だよ)」というのではなく、敵も味方も、そこにいる全員がおかしくなってしまえるからであって、女のベトコン1人を必死で殺したあとにみんなでミッキーマウスを歌いながら粛々と行軍するから、戦争は狂っているなあとか思うんでしょ。自分の命だってものすごく軽くなっていって、まさしくハートマン軍曹が言うように「命には平等に価値がない」ことになるのが暴力ってスゴイ(怖い)ってことなんでしょ。余談だけど新井英樹の「ザ・ワールド・イズ・マイン」はそういうことを狙って同じセリフを使ってたんだと思う。

それをさ、戦地でなんか怖い兵隊がいました女殺せとか言うんですとかって銃握りながらボロボロ泣いて、結局は子供を助けようとして死んじゃって、んで生き返って「お前は本当の戦争を知らない」とか言ってるのはロマンティックすぎる。それは「はだしのゲン」のアニメをテレビで見て「戦争、よくないわ」と思うところの延長線上にしかない。昔の戦争映画だったらまだそれでもよかったのかもしれないけど、でも今の現実じゃない。ヒューマニズムが解決策にならないからこそ苦悩しているのに、シーンごとにいつも極めて収まりのいいところからしか問題を扱わない映画に「お前は知らない」とか言われるのは心外だ。それは本当にストーリーテイリングとして巧みだし、彼が選んだ言い方の中では完璧に振る舞っていると思った。でもやりたかったはずのところの「ホントの現実」には向き合えてないし、アニメやマンガだっていうのがそういう弱い部分を「まあフィクションですから」と逃がしてあげる形になってしまっている。それは全然本意ではないはずだ。そんなの今どき、アニメやマンガですらない。アニメじゃない(アニメじゃない)! アニメじゃない(アニメじゃない)! ホントのこ〜とさ〜。違うって!! ホントじゃないって!!

で、開き直って、戦争反対兵隊ってみんな頭がおかしくて〜というのなら、まだエンタテインメントとして成立するけど、俺はそんなもの観たくはないし、作者だってそんなこと思ってないだろう。だからといって、選んだのがああいう見せ方になってしまうのは、まだカッコつけが過ぎると思う。安全な立場からもっと降りられる。

でもまあ、なかなか面白いなあと思いつつも腑に落ちないものを感じながら観てたわけだが、アンドロ軍団が非常にカッコよく街を壊しだしたのでうわーそれもイヤだよと思った。同じ理由でずるいよ。機械はカッコいいのかよ。かっこよくバンバン人殺してくださいねってことかよ。でもそれバレると困るからか、アンドロ軍団が民間人をバンバン殺してるところは描かれません。人間はいつもショッキングな形で人間によって殺されます。ズルいよ。戦争反対のミリタリー少年みたいなもんになってしまうのはダメだと自分で分かっていた結果、やっぱりそれをやらざるを得ないのはどうなんだよ! 逆に言うと機械はぶっ壊してもいいんですか。人型兵器は人じゃないからか。背後に人間を感じなければ何でもできるよな。でも、ラストで大爆発させても観る側にカタルシスも気持ちも残らないのは、ショッキングな形で人が殺されていっていたのと、ロボットが暴れ回っているのことの意味を、半ば意図的にすれ違わせてしまったからじゃないすか。

戦闘機カッコいいなあと言いながら戦争いけませんと思ってしまえるのが今の状況であって、それをそのままやってしまって、最終的な着地が「人を許せよ」みたいなところになるのがこの映画なんだが、それって何も解決してないじゃないか。「こうじゃいけない」と思ったであろう気持ち悪いチャンコロの正義感とかと何ら変わりないじゃないか。俺は「これって救いがないってことだよな、暗い映画だ」と思いながら観ていたが、最後の最後で天空からピカが落ちてきて「他人の存在を許せ。それしかできないけど、小さなことからコツコツと……」みたいな言葉でなんかあたたか〜くまとめて、西川きよしは関係ないが、しかしそれでフタをしてしまったのを見て、これこそ真の意味で「暗い気持ちになる」映画だと思った。お話を見ながら辛いことを一緒に考えてるつもりだったのに、ものすごい疎外感だ。辛いことから逃げ出して、ひとりぼっちにされてしまった。それで人を許せるなら、戦争なんて起きないし、この話が成り立たないよ。これだと、延命目的ということで私利私欲っぽかった大滝秀治を比較的楽に悪者にしてしまえる。でも、そんな部分で悪を作って席を立てる映画になるなら、途中をこんな風には作らなかったハズだ。

爆死したのに身体がキレイに残ってるのかよとかバイク乗ってプロポーズの恥ずかしさとか車が走るシーンのあからさまなCGっぷりとかは、俺は別にいいんだ。マンガはそれが素晴らしいんだから。でも、回想シーンになったら不自然に平和な緑の多い土手を二人乗りで自転車で加奈でお兄ちゃんは蜂の大群から妹を守って(それはなかったけど)とかは違うだろ。FF7はどこ行ったんだよ。そうなると、爆死とかバイクとかまでデタラメだから素晴らしいと言えなくなり、何だかぼやけていくようだ。心が優しい人だから、絶望について考えた末に、ただ優しいだけの終わりを用意してしまった。これは「マグノリア」とは違うと思うと俺が言ったのは、そういうわけだった。

ともあれ、俺は観てよかった。なんでかというと、いろいろがんばって考えてる人が作った映画だったから。途中で投げ出されたので暗い気分になって疲れたけどよかった。帰りのバスで、次も同じぐらいお金をかけて映画を作らせてあげられたらいいなと思った。もっと強く頑張ったものが観たいから。演技ではミッチーと大滝秀治がよかった。主役の人はあの仮面が非常に似合うところで選んだのかな思った。「キャシャーンがやらねば誰がやる」のセリフは編集段階でカットしたのかなあとか後からちょっと思った。

 

 

ありふれた事件 #69

めちゃ忙しいんだがこれはやらなきゃダメだろうということでリアライズをやっている。まだ3時間ぐらいしかやってないけどいろいろ思うところがあって面白い。クラナドと比較して何か書けるだろうからまだ書かないけど、個人的にはこれがみんなにウケるかどうかどうかでここ数年の俺のきもちとみんなのきもちの違いが分かるかなと思った。

つーか、続きが気になる。なのでしゃべり場がどうのこうの言ってるヒマなどないと思うんだが! オタクのひとも、そうでないひとも、どうでもいいことでこれをやらない人をかわいそうに思う。あと、おはなしのせかいが嫌いな人とか。

 

 

ありふれた事件 #68

僕もPerfumeのメンバーの顔と名前が一致してきました。Perfumeならのっちだよねと堂々と言えるようになるのもあと少しです。

自己責任とかみんな言っててうぜえ。自己責任てのはあれだ、落としたファイルについては自己責任でお願いしますってことであって、「関与したくないこと」を表明するだけの言葉としてしか実質使用されない。つまり、こんなのは自己にも責任にも関係ない言葉だ。そういう言葉を隠れ蓑にしながら、みんな熱した頭で普通じゃないことを口走っている。もちろん、本来的な「自己責任」という言葉の意味について深く考えたってもう意味はないのである。以下いろいろ書いたが消した。だが、みんなが、最初に、正しいと、言ったことを、俺は、絶対に、意地でも、やめない。のは、俺が、過剰に、マジメで、しかも、意地が悪いから。俺はそうとう、大人じゃないぜ! ざまーみろバーカ!!!!!!

そういえば先日ミカに「あなたは頭の中の言語の部分と計算の部分とドリーミーの部分の、ドリーミーのところが多すぎる。どうしてそんなふうに育ってしまったのか。本当に同情する」と言われた。誉められた!!

 

 

ありふれた事件 #67

スーパーマンはエッフェル塔をぶっ壊したあと、ナイアガラの滝で彼女とデートする。彼女はひょっとして同僚のダメまじめクソナード野郎であるクラーク・ケントがスーパーマンなのではないかと気付き、なぜか滝に飛び込む。アホだ。「彼がスーパーマンなら変身して私を助けてくれるわ」

が、クラーク・ケントは正体がバレるのがイヤで変身しなかった。ひどい奴だ。

スーパーマンは目から光線が出せる。というか宇宙人はみんな目から光線が出せる。悪役も出せる。光線でものが燃やせるんだ。すごい。目から光線が出ることこそが宇宙人の証のようなものだ。あと宇宙人は飛べる。怪力だ。それ以外はだいたい地球人と変わらない。そう思ってみると急に宇宙人もたいしたことないなとか考えてしまえる。全然たいしたことなのだが、目から変な光線が出たり手足をピーンと伸ばして飛べたりしてもどうってことないような気がしてくる。

スーパーマンにとって「変身」というのはドクタースランプでもパロディ化されていたように、服を着替えただけだ。普段はメガネで変装しているが、メガネを取っただけでスーパーマンだとバレてしまう。つまりあの変なSとか書いた服を着てマントを付けているのはほとんど趣味に近い。意味がない。こんなの「変身」とは言わない。グレートサイヤマン以下だと思う。

ともかく、メガネを取って正体をばらし、スーパーマンは「ぼくのすべてを知って欲しいんだ」とか言いながら実家に彼女を招待する。何となくいやらしいセリフだ。両親に彼女を紹介するのかと思いきや1人暮らしだ。スーパーマンの実家は北極だかアラスカだかで、家は氷の塊です。これは知ってる。前作で観た。寒いんじゃないかと思うが、愛し合う二人はイヤな顔1つしないで二人でワインなんか飲んでいる。そのあとスーパーマンはスーパーマン稼業をしてると彼女に迷惑だということで「普通の人間になるぞ光線」みたいのを浴びて普通の人間として生まれ変わる。光線はかなり身体に悪そうで、浴びながら呻いている。彼女は「私のために苦しんでくれたのね」とか喜んでいる。バカだろ。メチャクチャだ。

「すごいことなんてない。ただ当たり前のことしか起こらない」というのは、わの人のサイトにも書いてあるんだが、これは「フリクリ」のセリフだ。で、絶賛発売中の西島君の描き下ろしたマンガ「凹村戦争」はフリクリに似ているという話を前に書いたよな。

違うのは主人公が変化を追い求めていることだ。フリクリでは明らかにおかしなことが次々と起こっている中で意固地に変化を拒む少年が主人公で、「喋る猫の役なんてバカらしくてやってられない」「頭から角が生えるなんて非常識だろ」などというセリフが全編に渡って出てくる。この作品は俺には非常に分かりやすいのだが、よく意味不明だと言う人がいる。お前が意味不明だ。

凹村戦争でフリクリの主人公のような立場を担っているのは凹伴という少年で、彼は宇宙人という存在を認めることができない。認められないけれど、インターネットで情報を集めることはできて、宇宙人の侵略が事実であることを知っている。逆にもう1人の主人公である凹沢は「火星人襲来」を読んで真実の書であると思うような「バカ」として描かれている。

ついでに書くと、「火星人襲来」という小説は原題が「The War of the Worlds」で、西島君はこれを引用した上で凹村という1つの村がすなわち世界という現実とか、「すごいことなんてない」ような村の内部とメチャクチャなことが起こっている外部の世界の対比とか、そういう意味を込めているんだと思う。

つまりこの作品において内部と外部は隔絶しているわけで、当然のことながら物理的にはちゃんとつながっているのに、物語内ではラジオとかインターネットとか電話とか、いくつかの通信手段しか外部との接点がないように意図的に描かれている。

もっとも、これは隔絶された村の話だが、まあたとえば都市に住む俺だって今イラクに行くよりは家でテレビを見るわけで、それが物理的に続いてるなんてことをわざわざ指摘しても意味がないし、物理的に続いていても触れることのない現実について、ただその物理的に続いているという一点だけでさもホントらしく語れてしまうのは「バカ」なのである、ということになっている。せめてテレビやラジオやインターネットや、我々の認識力を拡張してくれるシステムを使う奴が現実的なのだ、ということになっている。というところがまさにこの物語が「アフター9・11」な物語であると西島君が語る部分に一致するところがあると思う。

このアフター9・11な態度を最もリアルに表現しているのは実は物語に出てくる凹坂という女の子で、彼女は面白いことが起こればいいと思っているけれども、娯楽としてゲームボーイに収まる程度の戦争が欲しい人だ。戦闘機を撃墜して超楽しいけど、セックスの方が楽しいわけで、でも火星人をペットにできたりする。俺はそんなのインチキだと思うけど、むしろ彼女は非常に現実的で強い。たぶんそれはヒーロー的な凹沢とは一番相容れない意見だと思う。だから、凹伴と凹沢が宇宙人に対する見解の相違から仲違いしたり和解したりするのを見て、凹坂は「男の子ってそういうものなのね」的なところでしか理解しようとしない。そもそも彼女は凹沢の意見について深く考えたりしない。彼女は普通の女子としてリアリズムをもって表現されている。彼女は最も即物的な日常に属している。

さて、凹坂はどうでもいい、何かもっと楽しいことがあればいいと思っているけれど、だがしかし日常には宇宙人が突然降ってくるほどの非日常があるのだ。が、物理的に繋がっている非日常に対して人は何のアクションもしないし、する奴はバカだし、しても無意味だと思われているところで、だがしかしこの物語はヒーロー的な凹沢というキャラクターを使って「いわばゲームの脱落者、なりたくなきゃテメエがなにかしなくちゃ」ということを言うようなものではなかった。

凹沢は今のままではどんなにナイフの練習をしても宇宙人と事を構えることができないと知り愕然とするが、先生から知恵を授けられて「宇宙人と戦うために東京の高校を受験する」ことを選ぶ。これは現実の側から非日常に対してアクロバティックな解決を提供するものだが、本当の意味で宇宙人と戦争することとは別で、実はすごく絶望的な選択だ。この作品はこういう重大なことがいちいちいかにもコミック的に処理されるように作られていてスゴい。

先生はたぶんそれが「現実的」な解法でしかないということに気付いていて、だから世界なんて凹村よりもっとデタラメだということを言うのだが、実際最終章で凹沢は廃墟と化した東京に着くのに、六本木ヒルズが大破するような超ワクワク事態になっていても、彼は宇宙人と戦争することはできない。受験生として東京に来た彼にぜひエバンゲリオンに乗ってくれというような非日常は現れない。凹村の外はメチャクチャが起こっていて、現実的な解法は首尾良く非日常にすり寄ることができたわけだが、だがしかしどこまで行ってもホントに欲しかったような非日常に触れることはできない。結局宇宙人という非日常は何もしてくれない。待っているだけでも会いに行ってもリアルを与えてはくれない。凹沢が「受験会場」を探し求めてさまようラストシーンは、これもコミック的でのどかですらあるが、真の意味ではひどく閉塞感に溢れており、暗い。不思議なのは書評などを見ているとたまに凹沢君がんばってよかったね的なことが書いてあるのだ。ちっともよくない。おっさん読者が陥りそうなところだが、SF的なオマージュに満ちていることがこの作品の素晴らしさなんかでは断じてない。

しかも、この物語には死体が登場しない。宇宙人に食いちぎられた猫のしっぽが出てくる程度だ。タツヤも、店が大破したのにマンガっぽく死を免れてしまう。東京は廃墟になっているが、宇宙人が建物をガンガン壊しているだけで、凹沢以外に誰もいない。誰もが死体という分かりやすい非日常すら体験することができないようになっている。

フリクリの主人公は、メチャクチャを起こしていたすべてを、メチャクチャな力でねじ伏せた。そして「子供だから」という理由で非日常へと連れて行ってもらえず、それっきりメチャクチャが起こらなくなる。最後にもう一度「すごいことなんてない。ただ当たり前のことしか起こらない」というセリフが挿入されて、物語が終わる。主人公はついに自分の街から出ることがなく、かわりにヒロインがカメラマンになるために街を出て行く。フリクリが作られたのは1999年だった。街から出て5年たった現在では、どこまで行っても凹村のようだし、東京のようだしという不思議な廃墟が広がっているばかりだ。それでも西島君は、そういうことに目を向けない人に苛立ちをもってこのマンガを描く、ということをやっている。非常にエライ。

 

 

ありふれた事件 #66

QuickTimeの規格は分かりにくすぎる。ところで俺が書いたイラクの話について、バカな人に「まあとにかく選挙に行け」とか何とかバカなことを言われた。さすがバカはバカだなと感心した。悩んだりする必要がなく作られていて、なかなか便利そうだ。だがそういうバカは俺のことなんて放っておけばいいのにと思った。

 

 

ありふれた事件 #65

死が決定した人の映像をずっと見せられているわけだが、というのはつまりたとえ結果として助かろうが助かるまいが、それに対して我々はなにもできないということで、それをさしおいて政府がどうのとか我々は議論ができてしまうということがもっとも気が狂っているのだが、誰もそんなことは言わない。

そもそも政府が撤退を拒み、すなわち彼らに死ねと言ったときに我々はもっと泣くべきで、それは3人の人権が大事だからじゃなくて、政府が非道だからでもなくて、我々の考え方の基礎になっているものが何ら存在しないということが露呈しているからだ。我々には人権など最初からないということがバレバレになってるのに、のんきにまだ政府が悪いとか人命がとか人権がとか自作自演だとかあんなところに行くから死んで当然だとか国際政治の駆け引きがとか何かが嘘だとか何かが真実だとかいう次元の話をしている奴ばかりで気分が悪い。吐きそうだ。早く終われよクソがと思う。存在しないものの上に乗っかってまだ存在しない議論をしている。会議だったら席を立つか寝るかするような状態だ。これはアメリカのテロのときに思ったことは、案の定もっとひどいことになってきている。あのときウェブにも書いたが、俺が最も絶望したのは人が死ぬとかそういうことじゃなくて、民主主義でも資本主義でもその他なんでもいいけど、我々が当たり前だと思っている価値観なんて簡単に崩すことができるということだった。それは分かっていたはずのことなのに、現実はそれはどんなレベルでも起こりうるんだぜと笑っているのである。これは本当は誰もが苦悩できる問題なのだが、なぜか誰もが平気でテロを思って泣いたり馬鹿なボランティアを笑ったりできている。

この苦悩は、彼らが助かるか助からないかとか、政治がどうなるということには本当は関係ない。実際にやったのがテロリストだか何だか知らないが、その衝撃は別のものから与えられている。誰も手を出すことができず、意志とは無関係に事態は進行する。誰が悪いという言い方には意味がない。理性なんて存在しない。人々は殺し合える。西洋的価値や合理的思考は絶対ではないし、そもそも絶対なものなんてない。その他。戦争は社会的なものだとかしたり顔で言ったり、バカは死ねと言って皮肉を気取れるような奴は、むしろその考え方が乗っかっている部分を崩されにきているということにこそ気付くべきなのに。そしてもちろん、彼らを救うために自衛隊が撤退したところで、俺の言っている絶望がなくなるわけでもない。

この話がムカつく理由はもう1つある。というのは、俺が首相だったら撤退するかといわれたら絶対しないだろうなあということだ。できる人は首相にならない方がいいんじゃないでしょうか。かといって、撤退はできないので死んどいてくださいとも言いがたいのであり、言える人は首相としてやっぱりいろいろまずいのである。そもそもこれが問題になっているのは、まさにどっちに進んでもろくでもないことだからなのであって、どっちかの選択肢が問題ないものなら、問題にすらならないのである(当たり前だ)。それなのに、首相の態度が許せないとか、家族がパニクッててうざいとか、またはそのどちらかを全面的に支持するとか、ぎゃあぎゃあ騒いでいるやつはすごいキチガイじみている、と俺は思うが、実際にはキチガイじみているのはたぶん俺なのだろう。俺には、みんな精神とかの話が大好きでアホみたいな性格分析とかをちまちまやってやがるくせに、今や我々が分裂病と呼ばれる一歩手前みたいな状況になっているということには全く気付かずに唾を飛ばして叫いているだけに見える。うっとおしい。彼らは自分に優しくて、他人のことがどうでもいい。そしてそれが社会的ってことだ。俺には訳が分からない。

そして、それは全部ありふれた事件だ。

違う言い方をすれば、彼らが助かれば何でもいいと思っている奴は、早く彼らが死ぬとこを見たいなああ楽しみだと思っている人と本質的に変わらないのであって、これらの人々はいい加減で責任感のない自分に対してほぼ自覚的であり、総じてロクデナシだ。そしてそれは俺だ。でも政治だかについて空談を続けている連中だってロクデナシだし、俺はそっちの方がろくでもないとおもう。とにかくかつて我々が信じた根拠はもうすっかりないのであり、我々は全員ダルマだ。すごく空しい。なにがしかの正義を訴えたり、それに対してアンチを標榜した気分になっている奴らが鬱陶しい。とにかく早く終わってほしい。もしくは、誰か何かをすればいいのに。革命とか。人殺しとか。俺はリアルを実行する奴がいればいいと思ってるんだよいつでも!

「予告された殺人の記録」というのは映画化されたが、映画の方は何だかマジックリアリズム的な面白さに欠けていたように思う。マジックリアリズム小説とは、俺的には西洋的合理性とラテンアメリカ土着〜て感じの制度が奇妙に融合しているところにあるんだが、それは共同体の外にいるというか理性的っていうんですかそれだから面白いとか言ってられるんであって、理性的に成り立っているはずの社会が予言に絡め取られていき、誰もが理性を気取っているなんて、恥ずかしくて死にそうだ。

ところで、@MLでしばさんが書いてた「あるいはそう思わせたい第三者の・・・(笑)」というのは、かなり過剰に包み隠してそういうことを言っているのであって、非常にしばさんらしい書き方だと思うワハハハ。でもそのあと投稿がなくなったのでみんな何か思ったのか知らないけど俺はメールが流れなくなってちょうどいい。

スーパーマンについて詳細希望と言われたのでスーパーマンの話と西島君のマンガの話をからめた話をしようと思っていたのだが、なぜか全然そうならない。それについては別に書こう。

 

 

ありふれた事件 #64

SpeedCommanderでindexファイルをアップロードすると失敗したときディレクトリのファイルリストが丸出しになるよ。何考えてんだアホか。困るよ。ちょっと考えてユーザー用のwwwディレクトリのパーミッションを701に変えてみた。変えられた。さくらインターネットは不思議な会社だ。

 

 

ありふれた事件 #63

ツールバー画像を前のやつ風(でも画像はDonutPからパクってきた)に変更。スキンとかボタンとか作ったことがないのでめんどいので透過にしなかった。インクリメンタルサーチの候補移動をAlt+Spaceに変更。Ctrl+SpaceはMoonliteなので。仕方ないのでAlt+Aでエクスプローラバーが表示されるようにした。なんか使いやすくなってきた。

 

 

ありふれた事件 #62

どうもスッキリしないのでPC環境をいじることにした。たまに動かしているウェブサーバを恒常的に置こうかと思ったがコンテンツを作るのがめんどいのでやめた。qmailをいじろうかと思ったがめんどいのでやめた。そうだブラウザだ。最近私の使っているfubというクールガイfubさんの作ったブラウザがProxomitronがスクリプトエラーがめっきり調子がぐちゃぐちゃなのでProxomitronをどうにかするかブラウザをどうにかするかなのだが、いっそのことプロクソはやめにしてブラウザのポップアップぶっころシステムを使えばいんではないかと思ったのだが、そうそうfubさんのリンクを修正せねばなと思っていたしました申し訳ないなあと思った、で、第何回目かなのだが俺もいい加減時代についていくためにfub.netに移行しょうかと思って最新版に入れ替えて立ち上げてみた。とりあえず慣れるまで使ってみよう。う! Alt+Dでアドレスバーにフォーカス移したらTabで逃げられねえよコレどうすんだろ。がんばれ俺。

つーか俺がブラウザに求めてるのって何だろう。軽くてタブでポップアップが消せて? URL抜き出しとかいらない機能がないのがいいな。あとキーボードでいじれるやつか。世の中のタブブラウザのニーズと一致しているのかよく分からない。俺は意外と同じツールをダラダラ使い続ける人なので、いまでもクソ重いNextFTPを使ってるし偽メッセンジャーだしWinampはクラシックのスキンだしnapchanだしMoonliteだし、あと何だろう。WWWCはさすがに使ってないな。でも原始進化さんとか今でもMoonBrowser使ってるんだよすごいよ。まあ俺は今日からfub最先端だ。

分かった。先にESCを押してからなら逃げられるのか。

スタートページの指定は適当にdatを作ったらできた。タブの幅は固定なのかあ。つーかお気に入りがAlt+Aで開かないよビビッた! 俺は古い人なのか? うあわああああああああああ。

すごいねこれインクリメンタルサーチができるんだOperaみたいだ。

 

 

ありふれた事件 #61

メチャメチャ機嫌が悪い。

 

 

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