ありふれた事件

  

 

 

 

 

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ありふれた事件 #150

栗のひとがまた怒ってるよ! なんか俺のやってることは「とことん筋違いなイチャモン」だそうで! つーか俺が「ばるぼら氏の代弁を担当するのを任務と心得ている」そうだ。俺こういうこと言われるだろうからばるぼらさんのことには答えないってわざわざ書いてるのになあ。つーかこの人どんどんこうやって推測に基づいて変なこと言うんだねえ。だからどんどん俺も言ってあげてんだけどアハハハハ。もうすぐ馬鹿とかチビとか前世はイモとか言い出すよこいつは!!!11ぬぬぬんnあとあれだね、右顧左眄しちゃってーみたいなこと言ってたらモーリさんに急に文句言い出しましたようでホント大したモンだね。

渋谷系云々もそう。

俺は渋谷系の話なんてしてないんで! 俺はばるぼらさんの代弁を担当するのを任務としている方じゃないですよ? ばるぼらさんに舞台の上でツッコミ続けてあげたらよかったんでは? トークショーとかってそうやってするんじゃないの?

コンテンツとオープンソースについては、おれは二、三度聞き返したはずだが、けっきょくまともな答えは返ってこなかった。それでどうやって議論を発展させろっつーのさ。

そんなの知るかよ。俺客として見ててそう思っただけですよ。ほかの人もそう言ってたと俺が書かないのが優しいと思えばいいのに。何そんなエライの? 俺が客席から立ち上がってフォローしてけばいいの? みんな君の表現の幅を考慮し続けるべきなんですか? つーか何度も書くが、知識の話じゃなくて、そういうことが分かってるならどうしてあんな本になって、席上のお話もズレてたのか不思議だって言ってるだけなんだけどなあ。

こういうすごい本にしたかったといっているのに云々についてもそう。「すごい問題提起だった」ってしらねえつうの。だって読んでないんだもん。

俺だって読んでないよ! オープンソースの話もそのとき知らなかったしさあ。ばるぼらさんの元ネタの本を知ってるんでしょ? 年表も見たことあんでしょ? オープンソース、コンテンツと言われてもいっこうピンと来てるように見えないのはなんでしょうね、演技ですか? 勝手に推測して失礼に断定してあげると、君は知識を溜め込まないと何にもできませんね?

 

 

ありふれた事件 #149

揚げ足を取るだけの批判が「すごい」とかいわれているんじゃさすがにアレなので。

あら、そんなふうに書くんだ。ブロガーの人は。すごいね。俺さあ、これをあえて書けるのは、おそらくあそこにいた奴では俺しかいないだろうと思ったのね。書けても歯切れが悪くなるだろうと思ったんだ。俺のサイトがニーツオルグでよかったと思ったよ。だからこそすげえきっちり書いたんだよ。文体を見りゃわかるんだよ。この人はわかんないかもしれないけどさ。これがブロガーさんのコミュニケーションですか。大したモノですね。じゃあ俺もナメた態度でやらせてもらうわ。レペゼンせよ! このサイトはニーツオルグです!

さて、いいですね〜このエクスキューズ! 「こいつは揚げ足取ってます」ということですね? えーと、で、どの部分が揚げ足ですかね。揚げ足取りってのは相手の言葉尻のウッカリした部分をとらえて、相手の全体を否定しようってんです。いや、このへんで揚げ足野郎の書いてることを読むのをやめますか? そりゃ幸せでしょうね。しかしポイントとして出した座談会の発言部分の(もしくはユリイカ内の?)どれを私は言葉尻とらえてますかね? それとも逐一自分の有利なように皆さんの発言を抜き出してますかね? 揚げ足をもってして全体の論旨を作り、あなたの本だかイベントだかを否定しました?

つーかね俺は俺がいいものなら何でもいいのよ。本がつまらなくても座談会が面白ければいいんだよ。アンタが今後いい仕事をしたらいいって言うと思うよ。面白かったら細部まで突っ込んで面白いと書くよ。つまらなかったら細部まで突っ込んでつまらないと書くよ。細部まで詳細にどうして面白くないのか書いてあげた結果、一番大事な部分を無視して(見えないのかも)、細部だけ見て「揚げ足とられたー」とか言われるとすごいですね、揚げ足をとられた気分です! つーか、細部なんかないほど主要なところについて取り上げたつもりなんで困惑する限りだ。ていうか、あーらごめんなさい引用のしかたを間違えましたね。

反論はしないつもりだったけど、ちょっとだけ。なんか毛利さんが絶賛しているし。出来の悪いイベントだったことについては弁解しないが、揚げ足を取るだけの批判が「すごい」とかいわれているんじゃさすがにアレなので。

こうですね。「モーリさんのような方が誉めていらっしゃいますけど、こいつは揚げ足とってるだけですんで!! 揚げ足だからもうっ、みんなハナから信じないように!も、モーリさん!こいつ、いっ、あげっ、揚げ足とって、やがんです! そうです!」という意味です。そういうことはモーリさんに直接「あいつは敵です!」とかってメールでも書けば? とも思うが、そこに書いときゃ他の人にも見てもらえるもんね。だいたいさあデキの悪いイベントだって認めつつ「揚げ足だ」ってすごいよね。すごいなあブロガーって! 俺にはムリだわこんな文章書けねーわ!

揚げ足ってのは俺がたった今ここまで書いたようなものを指すんです。分かります? こっからは揚げ足を取らないですよ? 理解してくださいね?

ばるぼら氏は、「オープンソースがコンテンツ化する」と発言したはずだ(違ってたら突っ込んでください)。「コンテンツがオープンソース化する」であれば常態的にいわれていることだが、その逆だったから「どういう意味か」と訊ねたわけだ。コミュニケーション自体が目的化したのが現在のネットワークである、ということについてもマスダ氏が『図書新聞』の北田暁大氏のコメントを引きながら言及している。

だから何です? ていうかいや、じゃあなぜにそのときそう言わないの? 「えー、コンテンツがオープンソース化する、であれば常態的に言われていることですけど、どういう意味です?」とか突っ込んでいけば? それは主要な議論になり得ませんか。mixiやら投げ銭の話題の方がユリイカ的でしたか。つーか、それを理解してる奴の作った本には見えないという話なのになあ。コミュニケーション自体が目的化しているということをちゃんと理解すると、「ブログがメディアとして」みたいなことはあんまり語れないはずだしさあ、常態化なさってるなら「コンテンツのなさ」もパッとわかるだろうしさあ、それをふまえて作るべき本が分かるんじゃないの?

まあ、コミュニケーションが目的化してるんだもんね。コミュニケーションが目的化してる奴が、「コミュニケーションが目的化しているって話があってネ」とかアゴさすりながらみんなとコミュニケーションしてるんでしょうかね。これぞ空談て感じですか。つーか「常態的に」とかさあ、「そんなの知ってますぅ〜!」みたいなことを言ってもさ、知識を問うてるわけじゃないのよ。ユリイカが全体としてそういう本になってないって言ってるんじゃん。なんかこう、 知識云々で妙にプライドが高いんだ。知ってるモン! って言いたいのね。キレてるポイントが無知を指摘されたという点に集中してそうだ。無知なんか指摘してないのに。ああー、揚げ足とかってそういう意味か? 知ってるかどうかなんて言ってないんだよ。知らないのが馬鹿だってんなら「知らないから馬鹿だ」って書くよ。知らなくたって分かってる奴は分かってんだよ。知ってたってエラかないんだよ。活かせよ。反映させろよ。それができなくて、「こういう話があるんだけど」って指摘したら「そんな話、知ってるわ!」とか言われても「ハァ?」って感じだ。「『ぼくらのはてな』って特集だったら、まだマシだったんだ」て書いたじゃないか。理屈としてそういう話が載ってるのに、どうしてそれをふまえた本になってないの? あの本はただの寄せ集めですか?

夢がねえからこういう特集が組まれた、という可能性もあるんだ、というところまで想像力を広げてほしかった気がする。ま、べつに期待はしないが。

何カッコつけながら人ナメた態度を取ってるんですか? カッコつけるなら人を使わないでお一人でお願いしますね。ていうかじゃああれは「夢がない」という特集になってると思ってるんだね。あれが。凄いなあ。んで「人気ブロガーがいっぱい載っててよかったです」とか言われてるんだぜ。意味が分からん。何が「企画サイドの意図を」だ。「俺たちの音楽性を」とか抜かすバンドと一緒だ。ていうかユリイカの読者をなんだと思ってるんだろう? 読者に対して何を語りたいの? 尊大でありたいの? 俺の隣にいたオッサンは「mixiはブルックリン化」とか真剣にメモってたよ? 最後に質問した人だよ。あの人だ。あの人とかに対してどう思うのかなあ? ナメてんのかな? 彼の企画にとってどうでもいい質問をした郡さんとかもナメてんのかな? つーか何でこの人はこんなに冷笑ヅラして他人をナメてんの? 俺には、俺が辛辣なことを書いたからこいつには「ま、べつに期待はしないが」とかナメたことを書いてもいいと思ったのかねー。自尊心を保つためのおまじないなのだろうか。俺は辛辣なことを書いたとは思うけど、礼も尽くさないけど、この人みたいにナメちゃいなかったよ。メチャメチャまじめに書いたんで、それなのにこの人がてんでナメてるんで、ほんとアホみたいな気分になって、俺もこの人にナメたことを書くことにしたわけだよ。つーか揚げ足とか言ってるしさあ、読解力が不足してるんだろうけどねえ。それともああいった調子で批判されるとムカッときちゃってキーって感じの人なんですかねえ。きっと偉い人なんだねこの人。俺の知らないどこかで。

ばるぼらさんに書かれていることは俺が書いてもしょうがないので書かないし、あの人はもめ事を嫌う人だと思うから反論しないような気がするけど、まあなんだね、「ぼくのファンで」とか「リライトが」とかを見るに、それから「毛利さんが絶賛」とかもあるしさ、立場的なことを気持ち悪い形で文章に混ぜる人だねこの人は。何ですか威信とか偉力とかいうものにこだわりを感じているのですね。そこから来るパワーゲームというか。業界というか。これがブロガーさんのコミュニケーションですか。大したモノですね。

それにしても、とても大事なことが書けたのに、そのあとでこんなコトを書くなんてとても残念だよ俺が。この栗なんとかいうろくでもない奴のせいだけどさ。アハハハハハ。

 

 

ありふれた事件 #148

ラジオ終わった。面白かった俺が! 曲がいっぱいあるのでばるぼらさんをムリヤリ急いで喋らせてしまいました! ごめんなさい! えーと同時にみんなが渋谷系について何を間違えているのか何となく分かったのでよかった。

で、昨日は神保町に行ってユリイカのイベントを観たのであるが、ようするにばるぼらさんが出たのでラジオのために連行しに行ったというのが俺の役割であるが、神保町について共栄堂でも食おうかと思ったら休みなのでメーヤウでも食うかと思って歩いていたら後ろから来た人が俺の肩を叩く。俺には知り合いや友人が異常に少ないのであえて俺を呼び止めるような奴は異常者か通り魔に違いないと思ったら違った。山田さんでした。おお! うれしい! 街を歩いていたら友達に呼び止められました的瞬間! うれしいので一緒にスタバでお茶を飲んだ! 楽しい! ひょっとしたら神保町には俺の知り合いがいっぱいいるのかも! もっと神保町をウロウロしていれば知り合いに呼び止められたりするのかも! なんて恥ずかしげもなくさみしがりな発想なんだ。で、まあ山田さんもユリイカのに来たということなので一緒に行く。17時から開始ということなんであったが始まったのは17時20分だった。出演者が1人遅れてきたそうだ。遅れたのはばるぼらさんに違いないと勝手に思っていたが、そうではなかったそうだ。

イベントはつまらなかった。ムチャクチャつまらなかった。どうせ、誰もなんでつまらなかったかなんか書かないんだろうから、俺が書いておくよ。丁寧に書いてヤンヨ。

あの特集がどうしてああいうモノになったかよくわかったよ。ユリイカの郡さんはいいよ、インターネットのことが分からないんだもん。でも、インターネットのことが分からなくたって、ばるぼらさんの本が素晴らしいってのはちゃんと分かってたでしょう。そこは職業的なものでもあるし、感性でもあるよ。あの人はいい本が作りたい人なんだなって思ったよ。だから「ばるぼらさんの本みたいな特集が作りたかったのに、どうしてできなかったんだろう……」みたいなことを言ったでしょ。それはすごい問題提起だったんだよ。

「これがあれを滅ぼす」という内容が、つまり、新しいコレがスゴいんだ! ほかを席巻する! って内容が、なぜできなかったんだろうって郡さんに問われたときに、出演者は何も答えられなかったわけで、「何が訊きたいんですか?」とか言っちゃってさ、君が答えを持っていないせいだというのは分かるけど、そんな質問で返すのは郡さんが本当にかわいそうだと思った。ひどいよ。夢のありそうな話すらできないということではITゴロ以下だ。でも出演者は自分が何を考えていないか、考えていないだけに分かっていないので、仕方がないけどさ。せいぜい言えるのは、もうちょい言葉に気を付けようねってことぐらいになっちゃうんだけどさ。でも俺はそんなことを言いたいんじゃない。

彼らが分かっていないってのが何なのか。単純に言うと、「ブログにはコンテンツが足りない」ってばるぼらさんが口頭ではっきり言っても、まだ「メディアとしてのブログの価値が」とか言ってるような、ことだ。ようするに彼らは(いまだに)コミュニケーションの場としてのブログに興奮を覚えているんで、近視眼的にコミュニケーション自体に丸め込まれている彼らは、ブログで何が語られているかよく分かってないし、たぶん普段もよく考えないんだろう。俺が前に「ブログ100選で『メタブロッギング』がアタマに来るってどういうことだよ」って書いたのがそういうことで、また、彼ら自身が「書籍化されたブログ」にはてなダイアリーを使ったサイトが1つもないと気付いているにもかかわらず、それがなぜなのかってことを考えていない。彼らは自分たちの「なんとなく、人文系の人が多い、僕らの、はてなダイアリー」ってサービスに溺れているようなものだ。それが批評的ですか? 詩と批評の雑誌として。

「ぼくらのはてな」って特集だったら、まだマシだったんだ。というのは、出演者諸君は自分たちがNAVERやライブドアなどのブログで今行われている、小中学生が行っているコミュニケーション行為に全く無自覚であるということに気づけていないってことなんだ。のんきに「エキサイトは使いにくいからやめちゃった」みたいなことしか言わないんだぜ。

どっちみち「はてなにはなぜか人文系の人が集まっています。なぜだろう?」って話がまずあるんだ。なぜ「はてな」が選ばれたのかが分からないなら、「なぜかは分からない、でもみんな今ここに集まっていて、ここが面白くなってるんだぜ」だっていいんだ。ユリイカはインターネットについての本じゃないんだから。言論のあり方とか、社会意識とか、そういうことを言わなくたって成り立つ本なんだ。それ以外のアプローチがある本だから。「詩と批評」なんだぜ。「その言い方は社会学だ」って郡さんが何度も言ってたのはたぶんそういうことだ。ユリイカは社会学をやらないわけじゃないが、社会学ばっかりなんかやらなくたっていいんだ。むしろきっと、感情のあるものがやりたかったんだ、もちろん。

でも、社会学的な方面がきっちりつきつめてあるわけでもなく、あの本は、なんとなーく自分たちがコミュニティーとして使うに至った「はてな」の話をなんとなーく書いて、そこで自分たちが何をやっているのか、ブログというメディアに注がれたコンテンツとは何なのか語らないし(そんなこと考えていないんだから当然だ)、かといって、「文字」というネット以前に「文学は死んだ」的言論によって瀕死の事態に陥っていたインタフェースがどのように掬い上げられたか、語らない。釈然としない結果になって当然だよ。郡さんの質問は宙に浮くんだ。そして、「いつも読んでるブログの人が一杯出てて感激ですう」みたいな感想を書かれるんだよ。

俺はあの号を読んで、ブログをどういう視点から眺めているかサッパリだし、誰に売りたいかも分からないってことをこのサイトに書いたと思うんだけど、ようするにそういうことだ。出演者が意図を深読みしろ(だったっけ)みたいなことを言ってたような気がするが、君の意図なんか全然伝わるような本にはなっちゃいない。だって編集長に尋ねられて返事もできねーんじゃん。そんなところに意図なんかないだろ。ホント「僕らはここでコミュニケーションに溺れてるんだ」って本ならまだいいんだよ。カッコいいじゃん。言動が一致してますし!

ばるぼらさんがレッシグの話を引き合いに出しながら「コンテンツがオープンソース化」みたいな話をちらっとしてたけど、全く理解されないのですぐに引っ込めてた。あんなのさ、俺はレッシグ読んでないし、オープンソースにも詳しくないけど、ちょっと考えれば分かるようなことじゃん。なんで分からないの? つまりさ、ここ4〜5年で人々はネットをコミュニケーションに使うことに熱心になり(それをブログと絡めて語ったっていい)、それまでネットの主役と言ってもよかった「コンテンツ」は、そのものの価値より「コミュニケーションの契機」としての役割が重視されるようになった(コミュニティに参加するためにフラッシュ作者になる、などの例をも含む)ってことだよね? そこから、今まではネットからカネを取れる要素としてコンテンツが重視されていたんだけど、コンテンツ自体は極端に安くなるか、またはフリーになり、コミュニケーション行為にカネを払うようになるとかいう話になるんじゃないの? 違う? まあ近い? でも、そりゃ理解されるわけないよな。座談会の人たちは、おおむねノンキに「コミュニケーション行為」の部分にいる人なんだから。たぶんこの話を理解したとしても、そいつを「コンテンツ」にして、彼らのhatenaでコミュニケーション行為を楽しむのだろう。だろうだろうはもういいだろう!

というか、この話はよく見ると対象と批評の主客が入れ替わるという恐ろしい問題を孕んでいるんだぜ、「詩と批評」の人たち! 気付けよ! つーかそこまで行ってこその「ブログ作法」特集だったのではと今にして思う!

吉田アミさんはかわいい人だった。服が腕のとことかキラキラしててよかった。フワフワ系のアクセサリ(靴もだったと思う)もよかった。爪は遠くから見えただけなのでよく分からない。吉田さん自身がどう思ってるのか俺は知ったこっちゃないが、女子がさあ、自分の容姿についての話で笑いをとってさ、それを見て「あ、それでいいんだ」みたいなことを思ってか、いつまでもその話して盛り上がりを持続させようとする男子って俺は最低だと思うよ。だから吉田さんにエレベータのところで会ったので、吉田さんはかわいいですねと言った。具体的にどこがかわいいということをうまく言えなかったのと、今度デートしましょうというところまで言えなかったので、俺ですらダメなんだぜ? 分かるか? 吉田さんについては、普通に自分の気持ちに応じて話をする人だったので(それはいい)、ほかの人がそのへんの対になる部分を話さないと座談会にならないよ君らと思った。特に吉田さんの「(ブログを)タダで提供するから面白い」「ユリイカはSPA!じゃないんだから」という話は、ネットワーカーのお金に対する考え方の新旧から見る今のネットとか、ユリイカが今回の特集を誰に向けて作って、それは成功しているのかという問題とか(西島君がSFについてイラだっていたような話だ)、「サブカルチャー」の流れと「はてな」についてとかを、いくらでも検証できる発端になりうるものだったのに、全部馬鹿に潰されていた。結局、「何の話があるんだっていう特集で、何の話するか分からないイベント」になってた。でも吉田さんはとてもよかったよ。ああいう立場で話すというのが極めて分かりやすかったので、あとつまらん話は打ち切りたいというのがよくわかった。最後に締めてたし。ああ、あとこの人はあえてなのか性格なのか知らないんだけどバランス感のある発言を心がけていたようでわりとオッケーだったんじゃないかな?

あと、SNSの話は全く必要なかった。2ちゃんねるの話は2年ズレていると思った。ゴミが多すぎて情報が拾えない、とか。昔は浄化作用があったから、とか。というか、最近になって急に「2ちゃんねるは終わった」「昔ほどのパワーが」みたいなことを言い出した奴がロクな奴じゃないのはもはや疑いようがない。コミュニケーションっ子だ。今2ちゃんねるには「コンテンツ」があると俺は思うね。「チャンネルを使い分けてる」とか退屈なキーワードの連呼はやめてほしい。社会学うぜええええええええええ。

良かった点は、質疑応答というタイミングじゃなくても会場から意見を拾ったりしていたこと。むしろ質疑応答の時間なんかいらないから、あれを最初から意図してもっとやっていれば、ブログのイベントだねえという感じになってよかったかも。でも出演者が一番前に座ってる客(知り合い)とクネクネ(「クネクネ」の意味はばるぼらさんの本のどこかに書いてあるよ!)してたのはとてもウザかった。高校生のクラブイベントかロフトプラスワンでまれにあるクソみたいなイベントのようだった。コミュニケーションとクネクネは違うのだー。

で、ばるぼらさんは「きまぐれコンセプト」の単行本をくれました! 感激! ありがとうございます! あと本ももらった!!!!!! やっと読める!

ということで今からぼるぼらさんの本の続きを読もう。西島君のマンガの再読は半分までいった。「世界の終わりの魔法使い」読み応えがあってなかなか進まないんだけど、そう思ってるのは俺だけなのか?

 

 

ありふれた事件 #147

また書くが、何度も同じコトを書くのは分かってない奴がいるせいだが、俺は渋谷系の歴史自体はどうでもいいんであって、サブカルに対する異常な敵視は何なの? というところからもちろん来ているんである。というわけで渋谷系について云々とかは通過点でしかないんだよ。渋谷系がハタした役割を考察している奴が全くいないから、俺が調べるハメになるじゃないか。馬鹿。すげえめんどくさい。第一俺は誰にも説明なんかしない。

えーと取りあえず俺は「今のオタク」と「今のサブカル」の対立(というか半ば一方的な嫌悪)は「かつてのオタク」と「かつてのサブカル」の対立とは違う、という考えから渋谷系に対する考察が必要であるなと考えた。「今のサブカル」は俺のこないだ言った言い方で言うと渋谷系を経由して完成した「オシャレサブカル」であって、ちなみにこの2005年においては既にこないだ渋谷系の前後に成立したと書いたモノからもさらに違ったモノになっているのであるが、基本的な路線は一緒である。で、その「オシャレサブカル」が「オシャレ」になる前の「サブカル」というモノがあるのであって、ちなみに、そいつは「かつてのオタク」と半ば対立していた。というのが次のお話なんであった。また嫌いな話だなあ。理由はどうせ学生運動とかが出てくるに決まってるから。興味ないんだよなあマジメな人たち。

でもねー、今のオタクと今のサブカルの対立を、かつてのオタクとかつてのサブカルの対立の主役だった人たちが、自分たちの経験にのっとって論じるのは、間違いじゃないけど実は全然現状に即していないので、今のオタクとオシャレサブカルの対立を論じたい人や、その渦中にいて何となくかつての代理戦争みたいな所に連れて行かれそうになっている人とかは、よく見た方がいいはずなんだよ。これは前とは違う状況なんだよ。それが今全く考慮されていないので、あの辺の議論は混乱してるというか、議論すら行われないんだよな。昔の人が「サブカルってのはさ〜」とか語るのって、それはそれで正しいんだけど、今サブカルが嫌われている要因とは微妙に異なるハズなんだよ。でないと俺が見た紅白歌合戦が説明できない(はずだ)。

というわけで今俺がネットで見る限り「サブカル」というのをホメ言葉で使う奴がほとんどいないんだけど、誰もなぜサブカルはオシャレになったのか、なぜサブカルを忌み嫌わなきゃいけないのか、考えないで、「アイツらはサブカルだからダメだ。俺はオタクだ」みたいなことしか言わないんだよね。馬鹿じゃないの。んじゃどっからどこまでがサブカルか言ってみろっつーと、「サブカルはドキュン」みたいなことを口走るのね。馬鹿か。足下がスッカスカでなんにもないよ。ド近眼だから気付かない〜みたいな感じでさ。んでふんぞりかえってんのな。ついでに「サブカルチャー」と昨今の「サブカル」の違いすら混同してる馬鹿までいる。で自分(オタク)はすげえ情に厚い派閥のない夢(と書いてアニメと読む)の国の住人で、ほとんど正義の使者みたいに思ってるの。んで、サブカルについて頓着せずに切り捨てるのなんて、大して重要なことじゃないみたいに思ってるんだよ。ナンデスか、変に独善的にスポイルされてるのな。しかも、サブカルの奴まで(こいつらは「そういうのもあるよね」と言ってひとまず立場を認めて引いてコーヒーでも飲んでるのが立派なことだとか思ってやがるから)「まあ、いいよね」みたいなこと言ってんだよ。もしくは生理的な好悪をはっきり言うと議論を打ち切れると思ってやがるから「俺はサブカルとか興味ないぜーていうか、線引きとかどうでもいいんだよね。でもロックのレコード一万枚集めて言えることは、いいものはいい! 悪いものは悪い!」みたいなことを言い出すうんだ。すげえ気持ち悪い。自分たちがそれを嫌っている理由を、自分たちが嫌われる理由を、何にも考えてないんだよ。曖昧に線引きして、されて、なんか格好よく済ましてる気になってるんだ。自分が正しいって話しかしないんだ。そこで今まさに自分が貶めようとしているモノが何なのかってことについては全く考えないんだ。自分が正しいということの裏返しとしての「サブカルという悪」を語り続けるんだ。怖えー人たちだ。なーにがドキュンだ。アホが。ギャハハハハ。

で、オタクと昔のサブカルの話は調べるのがめんどくさいので、俺はすべてをまとめようなんて思っちゃいないので調べるかどうかも疑問だが、取りあえず前に言い忘れた、渋谷系の成立は当初サブカルから離脱する意味として成立したという話をちらっと書いておこう。えーと日本のパンクシーンはサブカルチャーと切っても切れない関係にありました。で、初期の渋谷系が最も馬鹿にしていたビートパンクもしかりです。彼らの掲げる、根拠がなくファッション的な「反体制」的な嘘をフリッパーズギターとかそういう人たちは笑っていた、ということです。旧態のサブカルはいわゆるジャパニーズパンクを大事にしましたが、渋谷系はそんなのと一緒はヤだったので、彼らは旧態の流れにあるサブカルとも違う立場を手に入れたがったのです。

で、ちなみにその嘘に気付いたパンクの側にいた人間の回答として最たるモノが、ナゴムとか、そういうアレです。ちなみに有名な話ですがスチャダラパーのシンコはナゴムのリスナーで別役実の読者でした。スチャダラってのは言うまでもないことだがラジカル・ガジベリビンバ・システムの劇のタイトルで宮沢章男から来ている造語です。だいたいアレだよな、演劇ってサブカルだよな。アハハハ。「スチャダラ大作戦」の裏ジャケに載っているのはガロの、特に泉昌之なのです。というわけで、つーか前提としてある旧来のサブカルの説明を省いているんでムチャクチャですが、つまりはサブカルなのです。で、サブカルから脱却した渋谷系と、ファッションパンク的なモノと分離されたたサブカルがすなわち渋谷系オシャレとスチャダラサブカルが融合してブギーバックなオシャレサブカルが始まったわけです。彼らは共通の敵を見て、旧態のサブカルを引用的に使いながら、メジャーに対するパンク的行動を行っていましたが、ここで融合しはじめるわけです。冗談ではないです。

ついでに言うと、π度に書いたけど、初期の日本のヒップホップを牽引したメジャーフォースというレーベルは極めて業界的、サブカル的なレーベルで、ピテカンとかに簡単に繋がります。で、もちろんスチャダラパーはこっからデビューするわけです。ええ。スチャダラパーを渋谷系におけるポップラップとかファッションラップとか考えるのはたやすいですが、渋谷系以前の彼らのスタンスを理解しておかないと、オシャレサブカルの成立がいかようにして行われたかが分からなくなると思います。

それから、コーネリアスと小沢健二の歌詞について書いて、小沢健二がソロになって何を捨てたのか、そしてその時点で渋谷系の限界は見えていた、という話を書こうと思ったけど、これはいいか〜俺の今したい話にあんまり関係ないもんな。ということで次こそオタクが登場だ! たぶん! つーかもうめんどくさいからお前が書いてくれ!

あとなー! ナードコアの詳細な歴史を今すぐ誰かまとめてくれ! これはおそらく絶対いるから! 90年代後半まででもいいんだ! でも懐古的な、感傷的なモノなら必要ないや。イライラするから。

 

 

ありふれた事件 #146

30日にばるぼらさんとやるネットラジオですが、やるのは夜ですよ。当日は、なぜそうなったかもう忘れましたが俺も神田に行ってユリイカのイベントを見て、その後ウチにご来宅いただくことになっております。ユリイカのオフ会みたいのとかいうのにはもちろん行きません。神田から麻布十番に移動するのがタルそうだから!! まあそんなわけでこのページの左下の方にあるラジオのとこを見といてください。ラジオが開始するとメール通知するサービスもあります。

 

 

ありふれた事件 #145

渋谷系のことを考えていたら渋谷系の人からファッションチェックが!

愛された理由は主にオザケンの「等身大で気取らない」人柄がファッション誌を通じてちゃうかな。その辺に呼応する感じで「スノビズムから来るオシャレ感」はピチカートが女性ファッション誌で展開したイメージ戦略かなぁと俺は思ってるんだけど

えー

俺はそれは違うと思うなあ。小沢健二自体が「等身大で気取らない」ことを目的としていたかどうかはともかく、メディアが彼について言ったことは「王子様」なわけだし、ヘイへイヘイだろうがオリーブの連載だろうが「頭いいのが普通ですから」という「等身大で気取らな」さというのは、

あっ。というかここの文脈は「フリッパーズギターが愛された理由」なので絶対違うと思うな。うん。フリッパーズギター時代の小沢健二は「等身大で気取らない」じゃなくて強いて言えば「等身大に(せいいっぱい)気取る」じゃないんです? アニエスベーの屋上で歌うような人ですよ?

えーと音楽シーンとしてコーネリアス・小山田が追ってた?*1イギリス・インディーズみたいなのって実際んところ、あって無いも同然で、全然音楽として受け入れられなくて単なるステータスシーンで終わったように思うんだけど

なんかボンヤリとアズテックカメラとか聴いてた俺が煽られた!! わははっは

イギリスのインディーズを追っていたのは小山田圭吾がというよりフリッパーズギターが、でしょうね。そこにシーンがなかったかどうかはともかく、俺はあったと思うんだけど、というかアンダーグラウンドな「自分たちの音楽」のシーンを隔世遺伝的にDJ的に持ち出す、という手法こそが渋谷系だと思うんだけど、だからこそ「イギリスのインディーズはシーンがないから定着しなかった」的なとらえ方は違うとおもうっすよん。つーかフリッパーズギターはセカンドアルバムの時点でそういう姿勢に自覚的になっていて、だからネオアコ以外からの引用はそこであえて当然のこととして行っている(で、それが当然のように振る舞うのがまさに彼らの青臭いスノビズムであり、アナーキック・ロマンティシズム・オブ・ユースだ)。彼らは「ネオアコ・ギターポップの伝道者として」ありたかったわけではないのだ。彼らにとってのオルタナティブとは「ビートニクスだってさ(プックス」とかあらあら汗かいちゃってとか「いいものを分け隔てなく判断できます」いうスノビズムであって、それが当初彼らにとってのパンクだったわけで、けっしてピチカートだけのモンじゃないと思いますよ。むしろピチカートよりもフリッパーズの方が、それがパンクなんだということを分かりやすく表現していたガキだったと思う。NEW WAVE CONERのログをもらったので引用させていただくと

だから渋谷系に対して「オシャレな雰囲気を楽しんでいるだけ」という批判は、ある意味正解である。音楽を聴いて感情を表現するでも、歴史に参加するわけでもなく、ただ音楽(やジャケット)が作り出す空間に参加するのが渋谷系の価値観でありライフスタイルなのだから。ただし勘違いしないでほしいのは、90年代初頭はそうした視点こそパンクであり非常に「ロック」的だったことだ。

というのがこれと関連すると思う。でも微妙に俺の考えと違うけどね(かつ、その後どうなったと俺が思うかは後述)。

んま、そんな感じで、渋谷系で残ったのってライフスタイルとして従来的な価値や既存の価値に囚われずに自分の好きな事やれ、ってメッセージくらいかなぁと
ちゅか、まぁ俺、渋谷系に違う思い入れあるので音楽の話からすぐ離れちゃうな

ちょうどこないだ書いた話に関連するんだけど、80年代までのファッショナブルな領域での「流行」は基本的に「ヤングアダルト」に向けられたものだった。それが「ナウい→オシャレ→トレンディ」という流れであり、ようするにトレンディドラマであり、カラオケであり、CDレンタルであり、「今年の春は、黒を着る」であるわけだ。それ以外の層がなかったわけではないし、それぞれの層に向けたファッション指南雑誌や情報誌が存在した(当たり前だ)が、主導権を持っているわけではなかった。が、メディアが語る「流行」の中心の1つとしてガキを認知せざるを得なくなったのが「シブカジ」だったはずだ。90年前後の雑誌に「メンズクラブを読むのはダサくて、これからはBoon(86年創刊)を読むのがカッコいい」と書いてあるのを読んだことがあって、たいへん面白いことに本当にそう書いてあったのであるが、それは「ナウい→オシャレ→トレンディ」な人たちの考え方であり誤解であり限界であった。ともかくコンサバでもなくボディコンでもない、なのにファッションとして背景を持ったスタイリッシュなものがヤングアダルトから見ると唐突な形で流行り出していて、無視できない状態になっていた。それはタケノコ族が流行るとか、そういうのと全然意味が違ったんだと思う。俺が渋谷系の成立にシブカジが土壌として存在すると考えたのはそこで、そのあたりから中学生から上は大学生までの人たちのファッションに対する「好きなことやれ」る感は強まっていった(同時に、ヤングアダルトの世界での「新しいモノ」は頭打ちになりつつあった)。

俺がテクノについて考えるのがめんどくさいのは、シーンの初期にオトナとコドモが入り組みながら進化していったからだが、シブカジと渋谷系についてはほぼそれを考える必要がなく、まさに「従来的な価値や既存の価値に囚われずに自分の好きな事や」る若者の台頭を語る上で分かりやすい。もっとも、俺は若い人が「従来的な価値や既存の価値の影響力を受けずに自分の好きなことをやる」ことの契機として渋谷系が果たした役割は大きいのに、渋谷系という流行自体は、最終的にそのユーザーにとっては崇めるための新たな価値観としてしか機能できなくなってしまったところに衰退の理由があったんだと思う。それは結局は「オシャレ」というキーワードに乗せなければ伝播させることができなかった渋谷系の限界であり(ピチカートファイヴがまず「キャッチー」と言わなければ「売れ線」をやれなかった)、それゆえ「渋谷系」という言葉はオーバーグラウンドにおいては最終的には一過性のファッションシーンとして、小馬鹿にされる対象として残ったのである。

いや、違うな。正確には「渋谷系」が図らずも生み出した「オシャレ」というキーワードを用いて「従来的な価値や既存の価値の影響力」を無効化していく思考のあり方、つまり「オシャレサブカル」が「渋谷系」自体を飲み込んでいったのかな。昨日調べた限りでは、94年以降。あーなんかまとまってきた! 俺の中で!

ちなみに「ヤングアダルト」に向けられた「メジャーシーン」に対する違和感は「奴らディスコじゃユーロで家ではユーミン」という言葉が端的に表している。にもかかわらず、「オシャレ」から「それもアリ」という言葉を引き出した彼らは、ディズニーランド「逆に」ハマッていけば「むしろ楽しい」ッスよというノリになっていくわけで(例として出しているだけでスチャダラパーが悪いわけではない)、いやあおそろしい世の中になっていきます。次はいよいよオタクの登場だ!笑い

 

 

ありふれた事件 #144

もちろん俺が渋谷系まで戻って考えはじめたのは、最近のオタクの人のサブカルに対するものすごい拒否反応についてだ! つーかエウレカセブンの第一話を見た! ガイナックス作品に対するオマージュがすごいな。「いまさらエバーとかフリクリとか」というより、明らかにオマージュとしてやってるよなあ。で、仕事の空き時間に西島君の本を会社で読もうと思ってずっと持ってくるのを忘れていたんだが、ようやく持ってきたので今から横になりながら再読することにする。

 

 

ありふれた事件 #143

渋谷系のことを考えていたら分からなくなってきたよ。なんでサブカルはオシャレってことになったんだっけ? 誰がそうしたんだ?

俺は全然そのころの資料を持っていないので記憶に頼るしかないけど、渋谷系はもちろん音楽を表す言葉として登場したんで、ラブタンバリンズの(ミニ)アルバムのどれかが渋谷HMVでドカッと売られて1位になったとかいうのが象徴的な出来事として語られたんじゃなかったかしら。しまったNEW WAVE CORNERの渋谷系特集を保存しておくんだった。アハハ。ログを保存する習慣がないからこういうことになるんだなあ。渋谷系が台頭する社会的背景として考えることができるのはおそらく「シブカジ」(90年の流行語)であり、いとうせいこうの「DJハンドブック」(88年)に象徴されるDJブームじゃないかと思ったんだけど、DJハンドブックはちょっと時期が外れてるかなあ。俺はこの本の印象がすこく強いので、もっと正しい例が出せるのかもしれない。でも、80年代の末期に第一次DJブームが起こったというのはこの本を見りゃ明らかだ。で、特に俺はそこで過去の音源を文字通りDJ的なセンスで拾い上げるということと、そしてレアグルーヴという考え方がもたらされたというのが渋谷系に大きな影響を与えたと考える。

あれ、ちょっと待てよ。俺がそう思うのはフリッパーズギターがいわゆるネオアコやギターポップなどの「捨てられた」音楽を再構築したからなんだけど、フリッパーズギターは渋谷系の頃には既に存在しないよな。92〜94年? トラットリアができた頃(92年)にはまだ渋谷系は成立していなかったよな。田島貴男が「俺は渋谷系じゃない! 汗かいてやってるから!」という発言をしたのは94年だ。ラブタンバリンズが解散するのは95年。じゃあ渋谷系の(要素としての)コアは93年か。ムーブメントとしてのコアはたぶん94〜95年だ。でもなぜ、フリッパーズギターが渋谷系のリスナーから愛されたかというと、その「スノビズムから来るオシャレ感」だったのかなあ。俺にとってはフリッパーズギターって未だに全然オシャレなものと感じないんで、ていうかネオアコもオシャレ音楽というよりは負け音楽なんだけど、うーんファッション的なところに対するオシャレ感から、連携して彼らの「捨てられた/ジャンクな/オルタナティブな/モノを拾い上げる」様がオシャレ(カッコいい、ではない)ってことになった、のか(これはなんかツメが甘い気がするなあ今仕事が忙しくて時間がないから考えられない。くやしい)?「ダサカッコいい」とかそういう感覚の登場か。ついでに書いておくとボアダムスの「ポップタタリ」が出たのが93年で「チョコレート・シンセサイザー」が95年。「デス渋谷系」すなわち暴力温泉芸者の頃には「オシャレサブカル」としての「渋谷系」は完成されていたんだよな。逆に言うと、このときには既に「渋谷系」は終わってたってことだ。終わってるから「デス渋谷系」とかわざわざ言うんだよ小山田圭吾はどうせ。ほーら見ろ今調べてみたら「OTIS」は96年だ。補足としては「サイクルヒッツ」が95年。というわけで「ヘッド博士の世界塔」(91年)から95年までの間に「オシャレサブカル」は成立したんだな。つまり92〜94年だ。俺が知りたかったのは、正直言うとそれだ。テクノとヒップホップの話をしないのは、オシャレサブカルの成立を語る上では不要だから。というわけでで、田島グレコは自分は汗をかいてるから渋谷系ではない(=渋谷系とは音楽というサブカルチャーをオシャレでありファッションとして取り入れているのだ)と言った、ということだ。これは後に蔑称としての(オシャレ)サブカルに発展すると思う。95年から99年までは、オシャレサブカルがついに価値の相対化と解体を全方位に向けて伸ばしていった時期で、カジヒデキで既存のラインは集大成を迎え、テクノを吸収し(ようとし)、ラウンジ・モンドに行ったのかな。ポイントとしては全部「アリだね」というマルを付けていく手法だったということだろう。これは今の彼らの言説のあり方に大きく影響していると思う。テクノについてはここでは全く語る必要はないが流行としてのテクノ(ele-king創刊は95年)の後のテクノな人々の「何も変わらなかった」という挫折感は特筆すべきではある。ついに新しいモノが尽きたのはたぶんココだ。テクノの人がショックだったのは結局もう新しい何かには到達せず、全部が横並びになったからというのが幾分かはあったんじゃないだろうか(これも要検討)。

話は戻って第一次DJブーム(文化人のオモチャ)の流れにあるスチャダラパーの登場は明らかにサブカルだよな。オシャレじゃなくてサブカルだ。ブギーバックは94年。ほら見ろ思ったとおりだ。一応調べておくと「スチャダラ大作戦」が90年か。つーか俺なんでこんなことやってんだろうな。こういうのは30日にラジオのゲストにお招きするばるぼらさんだ(宣伝)。こういう検証主義的なアプローチを今ブザマな形でやるのってマネっこ以下でやだけど、というかこういうアプローチはばるぼらさんみたいにちゃんとしていてすら果てしなく事実関係についてのどうでもいい指摘ばっかり受けがちなのであってうぜえつーか何でなんだろうねみんなそういうのが好きなんだろうかたぶん見える部分として分かりやすいのでそういうことがもっとも指摘しやすいのだろうが、ともかく俺は全然得意じゃないわけだが、考えようとしたこと(どこで「捨てられた/ジャンクな/オルタナティブな/モノを拾い上げる」様がオシャレ(カッコいい、ではない)ってことになった、のか)を考えたいんだけど時系列があまりに記憶だよりだから調べるところまで戻ってるわけだよヨロシクな。だってそういうこと書いた文書がどこにもないんだもん! 困るよ! 単に回顧主義的なだけの年代記なんて興味ないんだよバーカ! それにしてもNEW WAVE CORNERが読めないのが惜しいなアハハハは。まあいいや。90年。シブカジだ。BOSEとよしもとよしとも(だったと思う)がスタジオボイスの表紙になったのは92年10月号か。オシャレサブカル前夜って感じなのかな。スタジオボイスで思い出したけど書いておいた方がいいか分からないが94年にはネオパンクが。あーもう面倒になったこのぐらいでいいだろ。さあ考えよう。

あー書き忘れた! ピチカートファイヴは全く独自の進化を遂げたはず! もう時間がなくて調べてないのでたぶん! それを調べながら考えればいいや。あとはオタク文化との関係か。エバンゲリオンだな。つーかカッコ書きが多くて読みにくい。

あと付随して考えるべきなのは「ナウい→オシャレ→トレンディ」という流れとの決別の話。トレンディは89年の流行語。それにしても「今夜はブギーバック」って大変に象徴的な曲なのだなあ。そのタイトルの付け方からして。それまでにもそういう価値観はあったけど、オーバーグラウンドなものとして融合がハッキリしだしたのがこのへんだ。彼らがオールナイトニッポンで懐メロを「ナッツ」とか言ってたのは94年! 94年の夏のことなのです! 渋谷系は終わり、オシャレサブカルが始まったのです!

なおこの話は吉本隆明とかの問題とは全く関係がない。

さるひとにきいた! ヘッド博士は91年だって。そうか。トラットリアが92年だから、そりゃそうだわ。で、分かったんだけど「渋谷系」という言葉が言葉になったのは93年の春らしい。年刻みでいろんなことが変わっていってるな。しかし、俺の考えでは、だから94年には意外にもかどうか分からないが渋谷系はすでに解体され始めていたということになるなあ。名付けられた瞬間に半ば忌み嫌われ、そして拡散していったようだ。奇妙な用語だ。

しかし次はやっぱテクノのことを考えなきゃいけないなあ。オタクのことはあとでいいや。

 

 

ありふれた事件 #142

とにかく俺は仕事であまり寝ていなくて疲れていたので取りあえずちょっとだけ聴いておこうという程度の気持ちで会社のパソコンのしょぼいヘッドホンを耳にあててRAM RIDERの新譜を再生したのだったが肩胛骨のあたりがぎしぎしときしむ深夜2時6分にずっと遠くからやがて聞こえてきた間違いのないストリングスの音が俺をあのどうしようもない多幸感と全能感の極地へと誘いあの4時30分から最後にフロアで踊っているときのあの目の落ちくぼむ疲れと汗とひんやりと冴えた目とあの爆発してしまいたいようなあのキラキラした思いが宿ったので俺は本当に泣きそうに感動して煙草を思い切り吸いに行った。俺はこの人の音楽が好きだ、ひどく好きだ、大好きだ、あのときに初めて聴いたときからずっと好きだった。

 

 

ありふれた事件 #141

渋谷に神座ができてるらしい。懐かしいな。何か今新宿にもあるんだって? 味は変わってないのだろうか。場所はコンビニのポプラがあったところだそうだ。つーかポプラがなくなったということの方が驚きだなあ。公園通りのMORGANがなくなったのはこないだミカと一緒にたまたま通ったときにビックリしたものだったが、あそこはアップルストア渋谷ってのになるらしい。で、ワークショップみたいなひとたちが仲間募集中! マカーこえー!

バイクのカギを落としたのはあまりにショックでしばらく反応できなかったのだが、放っておいてもどうにもならないとやっと気付いて靴噛んでみたり空飛んでみたり、じゃなくて鍵屋を呼んで直してもらった。外車は高いとか言われたが直してよかった。バイクがないとどうにもならない。そんなわけで新しいバイクの納車を毎日心待ちにしている。インターネットは1分間に45回転で廻っている!

以下さっき途中まで読んだ本についてのメモ。つまり、ディズニーランドは歴史を必要としていないというなかなか面白い結論が導き出されると思う。でもそれはディズニーアニメが最初から歴史を必要としていないからだろう。アメリカのアニメーションは、ハナから外部に大きな物語を持たないし、持たせようとしない。だから、ディズニーランドは、そしてアメリカは物語を現実から隔離させるのが「うまい」というのは、間違っていないが、うまいとかヘタの問題ではないと思う。アニメというか、フィクションに対する姿勢が最初から日本とは違う。逆に言うとアメリカのアニメには背後の世界がない、それはヘタなことだって言ったら言い過ぎだと俺は思うってことだ。

で、そこから派生して思ったのは、昨今のひとびとが自分たちに対して典型的な「背後の物語」(ようするによく言う「大きな物語」ってやつだけど、あれが用語として曖昧過ぎるのは気になる)を当てはめようとしているのは、80年代から90年代にかけて日本人がフィクションに対して熱心に行った、「背景」の構築作業を自分たちに対して積極的に援用してる、ようするにフィクションとしての主体をかなり積極的に構築したがっているんじゃないか、ということだ(なんでそう思ったかというと「中二病」とかいうカテゴライズごっこを奇妙な熱心さで繰り広げている人たちを見たせいだろうギャハハハハハ)。2000年からの流れはまあそうなってると俺は思うんだけど、こうやってフィクションを柱にして考えるとこないだの例の北田暁大の「ロマン主義的シニシズム」ってやつとは近いようでちょっと違った視点を持てそうで面白い。データベースってのはたぶん全体が見えないって言えば今っぽいんだろうな。全体が存在しないっていう方がより面白くなるだろうけど。今度もうちょいよく考えてみよう。

また違う話だけど、80年代とか90年代とかいう区切りに意味はないというのは合理的すぎる誤りで、そういう制度に拘泥するが故に人々の思想や行動が決定されてしまうということがあるというのは、ちょっと考えれば分かりそうなものだけどなあ。

 

 

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