凍った旅

  

 

 

 

 

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凍った旅 #6

周りはみんなどうしようもないと言いながら、父母は我が家を維持していた。我が家では誰もが問題を回避していた。俺はどんどんそれが上手くなったので、高校ぐらいからはたいして怒られもしなかった。姉は馬鹿だったので父と衝突して出て行けだの出て行くだの出て行くならうちで手に入れたものは全て置いていけ服も置いて行けだのでかい声で言っていて、俺は部屋で笑っていた。父は姉の髪を引っ張って腹だの顔だの蹴ったりしていたそうだが、俺は部屋にいた。

が、しかし我が家はそれで維持されていたのである。普通の家庭をやらなきゃいけないと気付くと、全員持ち場には戻るのである。彼らが「酒を飲んで暴力をふるう父」とか「進学に過剰な期待をかける母」などのステロタイプなものになってくれればまだ俺は暴れるなり言うことをきくなり身の振りようが分かりやすかったが、そうではなかったのである。そうして、彼らは根拠なく周囲を見下し、「標準以上」の家庭を維持していた。

俺は家を出た。それは賢明なことだったが、逃げる以上のことにはできなかった。それに、彼らは家族なのだ。だからそれ以上のことはしなくてもよかったし、それで十分だった。だから帰省するたびに面倒な思いをした。でも彼らは家族なのだ。だからそれでいい。

姉はその後社会に出て、「悪いのは外部である」という思考を押し進めることに成功し、ついに我が家に君臨した。姉と父は家に帰ると母にずっと他人の悪口を言うのである。言い続ける。母はそれを聞いて疲れると電話で俺に嘆いていたが、それを準備したのは母でもあるのである。もう遅いのだ。手遅れだ。母は彼女自身が維持したかったものによって罰を与えられたのだ。

姉は子供を産んで、流行の名前とは字が違うと言っていた(らしい)。覚えていない。俺は子供の半径2メートル以内に近づかなかった。幸いそのときコンタクトがなくて目がよく見えなかったのでよかった。あの子供のことはなるべく考えないようにしている。どんな恐ろしいことが起こるのか、もう分かっているから。

「凍った旅」とはP・K・ディックによる短編小説のタイトルである。浅倉久志が訳している。

 

 

凍った旅 #5

ぼくは数学が苦手だ。かなり苦手だ。どのくらい苦手かというと、これの間違いを見つけろと言われて考え始めて20秒ぐらいでイヤになって放り出すぐらい嫌いだ。あと化学とか物理も嫌いだ。高校の時、化学の教師が「ポストが赤いのも化学で説明できる! 世の中に化学で説明できないものなんてないんです! だから化学を勉強するのは大事なんだ!」という情熱的なセリフを吐いた瞬間「ああやっぱり化学とか好きな奴はロクなもんじゃない」と思ってさらに嫌いになった。実際、化学は何が何だか全く分からなかった。数学は苦手だったけどゲームっぽいとこはちょっと好きだった。でも化学とかは真理探究ごっこみたいでどうしてもイヤだった。ポストが赤いということを化学の上で説明できても、なぜ赤に決めたかは説明できないだろうが。なぜ作家が小説を書くのかだって説明できないじゃないか。ということを進路指導の時に言ったらみんな黙ってしまったので、言うのをやめた。ぼくは昔から屁理屈が非常に得意だ。自分が数学や化学ができないでもいい屁理屈を作るのなんて簡単だ。

同じ頃、食事のときに父がぼくのやっていることをハナで笑うような口調でいろいろ言ったので、言っていることはともかく言葉遣いがおかしいということを指摘したら親を馬鹿にするとは何事だと殴られた。別に馬鹿にした訳じゃなくて日本語の問題だと言ったらさらに怒った。母がおとうさんにあやまりなさいと言ったが、なぜ自分が謝らなくてはならないのか全然分からなかった。

だいたい父に殴られるときはろくでもない理由が多くて、小学生のときに野球の試合をしてたら両親がそれを見ていて、家に帰ってからぼくのプレーがまずいとねちねち言われたので「参加することに意義がある」と言ったら、父はすごく怒ってぼくの頭を壁にガンガン打ち付けたので死ぬかと思った。そのとき、父は野球が好きらしいが自分は別にそうでもないと思い至り、以後はサッカーばかりやるようになった。たぶんぼくは小さな頃からそうやって面倒なことを回避していくようになったんだと思う。

母は今でもぼくが父に対して反抗心を持っていると思いこんでいるようだ。彼女の中では彼女が思うところの「立派で偉大な父親」と「それに反抗心を持つ息子」という分かりやすい図式が勝手に作られているようだった。これはいまだにそうで、ぼくはそれを思うたび、そんなくだらなく恥ずかしい物語の登場人物にされていることに悶絶する。

僕は無知で恥知らずな彼らに反抗心なんて持っていなかったのだ。両親や姉が世間を小馬鹿にするようなことを言うのを恥ずかしいなあと思いながら、一人で外に遊びに出かけた。大学に入って家を出たときも母は「偉大な父親から逃れて反抗する息子」みたいなイメージを抱いたようだが、この人はホントに幸せな人だなあと思った。

しかしその頃からぼくは、他人に対して正常に接することができなくなっていった。最初は新しい友達やクラスメイトの名前がどうしても覚えられなくなった。

 

 

凍った旅 #4

父はいつも尊大だったし、今なお尊大だ。ぼくたち家族は彼を許す仕組みを作ることで表面上健康的に生活することができた。父はコンピュータに興味があり、新しいパソコンやワープロを買っては、サッパリ使い方が分からないようだった。もともと青インクの万年筆で文字を書いていたような人だ。幼いぼくが彼が書く青い万年筆の文字が好きだったのをぼんやり記憶しているが、物心付いてからは、彼はキーボードを両手の人差し指で打ってばかりだった。

万年筆といえば、父がドイツに行った際、おみやげにモンブランのマイスターシュテック149を買ってくれたことがあった。本当にうれしかったのを覚えている。一時期ずっと胸ポケットに差していた。ちょうど、スーツを着てダッフルコートを着て、サイドゴアを履いて歩いた頃だと思う。万年筆はちっとも使わなかったしもちろん今も使わないが、まだぼくの机の中にある。

父は分からないことがあると、家の中で「おうい、これは大変そうだ。これは何だろうな」と大声をあげた。それが誰かに気付いて欲しいサインなのだ。たいていは母がハイハイと言って相談に乗ってあげたが、だんだん面倒になって誰も近寄らなくなった。すると父は誰かが反応するまでいつまでも声を上げ続けた。ぼくはそういう父を見て、醜い、ブザマだ、と思った。

父はパソコンを買ったときに、ぼくがくるまで大声を上げ続けた。そのうち母が来て、ごめんねちょっと見てやってくれるかとぼくに言った。ぼくはたいてい読書か何かをしていたが、面倒そうにそっちに向かった。父はそういうとき、必ず「おい、お前ちょっとこれ使ってみろ。やらせてやる」と言ってパソコンを指さした。ぼくはそんな言い方をする父が信じられなかった。そういう言い方をされて傷つくように健やかに心優しく育てられたので、そういう言い方をするなら、自分たちがたいしてノーブルな人々でないならば、そういう育て方をしないのが正しかったのだ。だがもう遅くて、ぼくは他人に傷つき、自分のやることに傷つくようなふうになった。

前にも書いたが、ぼくの悩みなんて全然たいしたことがないとは言わないが、両親がいない人や、親から虐待されたりした人からすれば、むしろうらやましいような種類のことだと言われたし、今でもときどき言われる。貴族的な悩みだとか、茶化されることまである。そう言われるのが嫌なので、ぼくはもうこの話はあまりしない。今年は、その話をして、ほとんどはじめて、かわいそうがるのではなく、あわれむのではなく、ただまじめに「いや、それは全然たいしたことないなんてことはないよ」と言ってくれた人がいたので、ぼくは本当にうれしかった。それでもぼくは、いまだに子供の教育とかを真剣に考えようとしている親たちを、ただ不気味なものとしかみることができない。ぼくはもう、そういう病にかかってしまったかのようだ。

人を育てるにあたって、何かをコントロールしようとしている姿が、ぼくには本当にイヤなものに映る。ぼくの母は、ぼくが幼稚園のころに、非行についての本を真剣に読んでいた。母はただ親としての純粋な興味からそういう本を読んだりしたのだろうし、彼女はぼくが父母が読んでいる本を気軽にパラパラめくっているのを知っていたろうが、それでもその本を読んだことでナイーブというにはあまりに軟弱なぼくがどんな影響を受けるかなんて、彼女に分かるわけがなかった。ぼくは非行という言葉の意味が分からなかったが、その本に気持ち悪い文や絵が怖いことが書いてあるのは分かった。ずっと後になって、小学校にある父母が本を貸し借りするPTA文庫とかいう書棚にも、非行という言葉の入った本がいっぱい並んでいるのを見た。それで、ぼくは急にその意味に気付き、なんだかひどく気味が悪くなった。大人は不愉快な事態を想像しながら、自分をよい人間にするために、いろいろな演技をしているのだと気付いたのだ。思えば、これまでの世界の裏側を知らされたことが、ぼくに最初に矛盾が提示されたときだったのかもしれない。両親やほかの誰かのせいで台無しだなんて言わないけど、ぼくに何ができたのだろうかと、ぼくはずっと思ってきた。

 

 

凍った旅 #3

くっだらねー。

俺の部屋の本の並びがバラバラなのは、こうしておくと他人が家に来ても、どんな本を何冊持っているかが、にわかに把握できないからだ。あとは、整頓してしまうと、バラバラに置くことができなくなるからだ。完全に整頓された本棚なんてあり得ないと思うし、そんなの本棚はちっとも本を読む気が感じられないと思うから、最初からバラバラにしておくのだ。

本をけっこう捨てようと思っている。売るというアイデアはない。俺が本やCDを売ったのは金がなかったときだ。給料をもらうために会社に行かねばならないのに、電車賃がないことがあった。本やCDやレコードを売った。悲しかった。

姉は高校時代、尾崎豊のCDをずっと聴いていた。うるさかった。写真集を買ったりしてた。俺が尾崎豊の歌を歌えるのは、姉が聴いていたせいだ。大学時代はフレンチロリータだかロリータパンクだかでそのあとはヴィヴィアンウエストウッドにハマっていた。直樹ちゃんの結婚式で彼女はゴスっこみたいなカッコをしていた。俺はスーツを着ろとか周囲に言われていたが、着なかった。それで、姉のカッコを見て、彼女はこんなカッコをしてるのに、俺によくスーツを着ろとか言うよなあと思った。俺はベタだなあと思っていたが、姉自身は自分のそういったファッションが自分の内部から生成されていると思っていた。不思議なことに、姉には自分以外に自分と似たようなカッコをした人が目に入らないようだった。札幌という小さな街だったことが幸運だったのかもしれないし、どっちにしても彼女はそういったカッコの人が集まるような、札幌にもささやかに用意されている盛り場などに行ったりするような人間ではなかった。大学は地元の女子大だった。彼女がああなったのは、なるべくしてなったと俺はいちいち思う。俺は彼女に比べて服に金を使わなかったし、彼女が夢中になってやっていることに何も口を挟めなかった。

彼女は自分の語学力に変に自信があって、英語なら誰にも負けないというような雰囲気があった。もちろん雰囲気しかなかった。おそらく彼女に自分で自信を持てる程度の英語力がついたのは、学んだ教師が好きだったとかその程度の理由だと思う。それでも彼女は語学が大嫌いな俺に英語の参考書を買ってくれたりしたが、自分が英語ができるという自負からそれをやっているのがよく分かった。すぐに俺は姉の買ってくれた本で使える部分と使えない部分が分かったので、あとは適当に自分で勉強した。

姉の部屋は大学時代からどんどん汚くなっていった。タンスが開けられたままになって、服が引っ張り出された状態で放置された。床の上に本やら紙類やらが散乱して、カーテンは閉められたままになった。それでも彼女は毎日おしゃれをして出かけていった。

ある日彼女は俺のところに来て、音楽についていろいろ聴かれた。俺はちょうどそのとき、俺の好きだった音楽がおしゃれなモノとして扱われているのを知っていたので、ヘヴンリィを貸してあげた。決してラフトレードのコンピとかではダメなのだとよく分かっていた。次に会ったときに、彼女はヘヴンリィキチガイみたいになっていた。それ以外の音楽は、もちろん全く知らないのだったし、たまに実家に帰った俺が何か音楽を、極端な例を言えばウータン・クランを聴いていても「ヘヴンリィに比べてどこがよくないか」ということばかり言われた。彼女はそういう人だった。

姉が尾崎豊を聴いていたときに、母は新聞の尾崎豊のインタビューを俺に読んで聞かせてせせら笑った。「これからはメッセージソングとかもいいかなとか言って、自分が何様だと思ってるんだろうね」みたいなことを言った。姉は買った写真集を押入に隠していた。俺は母も姉も嫌いだったし、嫌いになっている自分こそ何なんだろうと思い、恐くなった。

姉は周囲の人々によく俺のことを誉めて話す。俺はそれが嫌だったし、いまでも嫌だ。姉の中では俺は自慢の弟ということを越えていて、自分の絶対的な価値観のひとつとして話すのが嫌だった。俺はそれが重荷だったわけではなく、そんな狭い世界のことを絶対視して、全ての世界を馬鹿にしている自分の家族が嫌いだった。その駒のひとつとして俺を持ってこられるのが嫌だった。俺が愛されているということについて、贅沢な悩みだと何度も言われ、そんなことで死ぬ人間はいないと言われ、いろんなことを言われた。あんまり言われたので、どうせ俺の悩みは贅沢ですねはいはいという気持ちになった。それが一番楽だったし、みんなにとってもよかった。こっけいな話として語ることができる内容ですらあった。今でも、俺は現実的な意味において強くありたいのに、精神的な意味において強い人間だとか思われがちなので、訳が分からないことが多い。

あの頃、無邪気な顔をしたままで、俺はじっくり時間をかけておかしくなっていった。祖父が作った黄色い本棚は奥行きがありすぎたが、中学生になっても俺の部屋にあった。ちょうど西日が差していて、彼らが新聞を広げながら、世の中と、新聞自体とを馬鹿にしているときに、俺はあの自宅の床に寝そべりながら、顔色ひとつ変えずに、イデオロギーと絶対命題について説明された文章を読み始めていた。ジャンプでも読んでられたら、まだよかったのに。ほんのちょっと前には、まだせいぜい「いやいやえん」が好きなだけだったのに、彼はそんなものを読むハメになった。しかもそんなのは、当たり前だが、始まりでしかなかったのだ。

 

 

凍った旅 #2

先週の頭に書きかけていた文章がまだ会社にあったのであげとくことにした。

それでもジャンプとかヤンマガとかスピリッツを買っていた。ジャンプを読みながら来た。寝不足のときに電車内で読むマンガ雑誌はいつもつまらないものが面白く見えて面白いものがつまらなく見えるのだが、今回は全く面白くなかった。ダメだろジャンプ。ほかはまだ読んでない。

ミカの体が思わしくない。彼女はがんばって治そうとしている。俺には手から何かがでる特殊能力がないので食べ物を買ってきたり仕事をしたりすることしかできない。だが俺もミカも無力などではない。

土曜日は大介くんに誘われて網状言論F RePureとゆうイベントに行った。池袋。池袋だよ! 最後にいつ行ったか覚えてないよ。マジで。埼京線に乗ると近いんだ、ということが分かった。西武があるよ。西武の文化圏だ! スゲー! おもしろーい! で着いたら10分ぐらい過ぎてて会場はいっぱいだった。後ろの方で突っ立ってみてたら後から偉い人が席を譲ってくれた。ありがとう偉い人。俺の知らない偉い人。中身は、鈴木氏のが途中から聞いたのでよく分からないけどオタクとヤンキーとゆう話をしててちょうどどっかでこないだそれ聞いたよ俺! と思った。うろん(漢字)のひとりごととかLLLオブ777とかで! みたよ! VNIがVNCでリモートデスクトップで遠隔操作する! ヒンヒン動きます。それから、ちなみxの佐藤心さんのやつがレジュメが面白そうだったのに時間がかなり足りなくてレジュメが一番面白いということになってしまって残念だった。

大介くんは全然用意をしてないと電話で言っていたが昔作ったものとかを流していて南下の媒体で見たことがあったけど動いてるのは初めて見るのがあってうれしかった。「新海誠さんはインタビューでエヴァを観てないとかおっしゃってたけどなんでそういうことになってるんだろ観てるに決まってますよ。観ないでほしのこえ作ったならむしろおかしい。あれは出てこない」とか言ってたらあとの質問コーナーで客席にいた新海さんの関係者の萩原さんだっけとゆうひとが「実は観てますが普通の大学生が流行りモノとして楽しむ感じで観たという感じでしかし止め絵の使い方の感じとかはインスパイヤーされた感じなものがあった感じと伝え聞いておる感じです」という意のことを言っていて本人じゃないのにわざわざ挙手して教えてくれるなんていい人だネと思った。しかし俺こういうイベントってあんまこないけど質問とかする人いるんだよねーちゅあんと。すごいよね。何だろ。そこで自分が何かを投げかけて返答をもらうことでコミュニケーションが完成するのだろうか。謎だ。する方も答える方もどうも俺にはピンとこない。大介くんはポリゴンウインドウとかジョンカーペンターとかにオマージュで作っているのにだれも何も言ってくれないよそういう引用するし気づいてくれないことが気になるので僕は古いタイプのオタクの人だよと言っていた。俺も似たようなことを思うので面白いなと思った。鈴木東両氏は今後のオタクの指向はピュアなものを目指すだろうと言っていた。ノイズを排除すると。ノイズノイズと何度も言ったので俺はすごく気になった。それをノイズと呼ぶのは何だか俺は違うと思うなあと思っていたら鈴木さんはインターネットがとってもそうです、出会い系サイトで検索とかして好みの女性だけを求めていく、まさに洗練、じゃないや純粋化? とかそいう作業だ、と言った。俺はそれはどうかな、というかなぜAirに、ついでにエヴァにそこまでこだわるのかが俺には分からない。あれらの物語はあの瞬間にリリースされたモノとして象徴的だが、現在における全体を語るのには向いていないと思うよ俺はね。純粋という言葉と、ノイズという言葉の定義の曖昧さがなんだか釈然としなかった。なんでかというと、純粋というのは、個々にとっての純粋さ、というか選別という意味での純粋さの追求だ、というのが東氏の頭の中には当然あるはずなのだが、それをわざわざ言わないからである。それは、東氏が賢くても、言わなきゃだめなことだろう、と俺は思う。「ノイズ」とか「純粋さ」というようなセンチメンタリズムを感じる表現は分かりやすいし言いやすいが、言いやすいだけに、その使用に注意しながら言わなきゃ、それが、キモじゃないのか、と

というところまで書いてあった。

で打ち上げに行って終電で帰ることがことができた。

それから先、つまり先週いっぱい、いろいろなことが起きたが、もう説明できない。全体的にほうぼうからお前は馬鹿だねと言われ続けていた。「要するに貴様のことなんて全く信用してないからね」というようなことを言われもしたが、俺は笑っていた。笑いながら、この人に別に俺の気に入るようなことを言ってくれとは思わないけど、さりとてこの人が俺に嫌われたい積極的な理由もよく分からないし、どうしてそんなにすごいことが言えるんだろう、と思っていた。たぶんよっぽど俺はダメな人間なのだが、それにしてもすごいなあと思った。ダメ人間にはここまで言ってもいいのか社会は。俺は笑っていた。つい4年前には「別に俺を信頼しなくていい、俺もだれも信頼しないし、何もしない。俺にも何もしないでほしい。そしたらみんな辛くないし、楽だ」と言っていた。3年前は「俺を信頼しない人間には何もしてあげない」と言っていた。俺は変わった。ずいぶん変わったが、別に俺が何かを形として生み出してはいない。そのとおりだ。だが俺が変わったのは確かなので、俺は俺を甘やかす。吐きながら生き続けなきゃいけない人だから甘やかす。しゅんちに初めて会ったときのことをよく思い出す。俺は両親が健在だから、違うんだって、彼は言ったと思う。すごくショックで泣きたくなった。別にみんなで仲間意識を持とうとは思わなかったが、つまはじきにされる理由もなかった。俺は何も答えられなかった。だって確かに俺には何にもないから。俺からすれば、みんなだって俺にない部分があって恵まれているのに、どうしてそう言ってくれないのか、みんないろいろなところがなくって悲しいね(または、だからこそ悲しくないね)と言う方が俺にはうれしいのだが、じっさいはそんなことを言う人はいない。ただ、俺が恵まれてるのだということだけが残されて、贅沢な悩みだとか、甘えた考えだとかいう、自分でも自分に言える分かりやすい文句が残る。程度の問題としては、あなたの悲しみなんて、たいしたことはないです。俺は程度の問題で計ることができるのかと思う。これを読んでいるあなたが俺だったら、あなたはどうしたのだろうか。俺の人生のそれぞれのタイミングで。俺のようにはならなかっただろうか。それなら俺はすごくうらやましい。それならたしかに、程度の問題かもしれない。だがあなたが俺だったら、というのはあなたがあなたとして俺の立場で、ではない。あなたが俺だったら、なのだ。俺の人生は俺だけのものなので、程度の問題なんかじゃない。だから俺は、俺のことを甘やかしている。そうして叱咤している。

俺は笑っていた。どうしてそんなに悪びれず楽観的なのだということも言われた。これはいつも言われる。だれにでも言われる。だが、だれが、俺が楽観的などと分かるのだろう。笑っているのは甘やかしているからで、同時に叱咤しているからだ。レペゼンって、そういうことだったのに。俺が悲観的になったら、ただ身体が停止するだけだと知っているのは、俺だけだ。

家で仕事をしていたら、姉から電話があった。不愉快だった。次に母が出た。彼女は興奮していた。最後に父が出た。話しているうちに彼らが本当にうらやましくなった。うらやましくなったのは、俺とは違う世界の話だからだ。すごいね、よかったねと何度も言った。俺もがんばるよと言った。いろいろなことを考えた。彼らのように夢見心地なら、俺も幸せだったかもしれない。俺がこうであるのを誰かのせいにできれば、俺は幸せだったかもしれない。自分の言うことに絶対的な自信がある、より前にむしろ自分を疑うことなく言葉が紡ぎ出せれば、俺は幸せだったのかも、しれない。だが俺は俺なのでそうじゃなかった。そしてそうだからといって、俺が間違えているわけではない。だれも間違えてはいないし、全員間違えている。俺はどこにも勝ち負けなんかもたらさない。みんなに正しさがある。電話を切ってからすぐにミカからメールが来た。ミカにも電話がいったのかなと思ってぞっとした。そうではなかった。ほっとした。ミカの身体は大丈夫だろうかと思いながら、俺は仕事に戻った。

あややはすごい。すごすぎる。ロボだと思っていたモノが人間だったと知ったときのショックはと言えば驚嘆のあまりほとんど気分が悪くなりそうだ。畏れという言葉はこういうときに使いたい。アレは機械であるからまだ納得できたのに、まさか人間だったなんて。あんな存在があり得るなんて。むしろ奴が人間そっくりだと思っていたのに、俺がレプリカントだったなんて。自由の女神? ここは地球だったのか……というか、この人は独裁者とかに向いているなと思った。ヒトラー的

というところまで書いて、また止まっていた。もういいや。これを書いたときの気分でもない。そんなことよりも俺は身体がひどく元気なのでかえって心配だ。電池が切れたりゼンマイが飛んだりしないのか。しないな。帰って寝る。今週のマガジンについて何か言うとすれば、何がねぎまだ! というところであるが、主人公がネギなので麦ってやつと名前を混同するのでそろそろあっちは終わってもいいと思う。あとモーニングとちゃんぴゅおn買った。モーニングは案の定ブラックジャックによろがドラマ化だそうでさすがモーニングらしいいやらしい展開に満ちているがどうでもいい。どうでもいいよ!

 

 

凍った旅 #1

俺が「ドラえもん」をはじめて読んだのは、幼稚園児の頃だったと思う。幼い姉や俺のために、母親は「あんたたちもマンガの読み方ぐらい知っていた方がいい」とかなんとか言って、ワレワレに買い与えたのだ。今考えてみると少しおかしな言い方だが、あの母ならそういうことを言いそうだとも思う。そして彼女は自分がそう言ったことをすっかり忘れてしまうような人間だが、俺は今でも覚えている。たぶん一生忘れないだろう。

母からマンガの読み方を教わった。本の右から左に向かってコマを読みすすみ、端まで来たらナナメ下に移動するのだ、と教えられた。これも変な教え方のような気がする。「各段を右から左に、上の段から順番に読む」などとは言われなかった。ナナメ下に移動しろと言われた。どっちのほうがマンガをはじめて読む人にとってわかりやすい説明なのかはわからないけど。俺はすぐに読めるようになったが、姉はなかなか読み方がわからなかった。姉は昔から鈍いところがあった。俺が次々と楽しそうにマンガを読んでいるのを見ながら、姉は「私は読めなくていい、読みたくない」とすら言った。子供なりの負け惜しみであったが、こんなものが読みこなせないとむしろ社会生活者としてヤバい可能性があるので、母と一緒に訓練して読めるようになった。そのおかげで姉は、後に「ときめきトゥナイト」や「ポニーテール白書」や「サラダ日和」や「ONE〜愛になりたい」や「イキにやろうぜイキによ」などを買い、でも自分の部屋にマンガ本を置いたりするのが恥ずかしくて家族にバレないよう押入に隠し、深夜にこっそり読んだりする立派な娘に成長した。鈍い子でも若いうちに対処しておけばなんとかなるものである。

ドラえもんの単行本は最初、小学館の子供雑誌と一緒に買ってもらっていた。しかし小学館のほうはすぐに飽きてしまったので、ドラえもんのコミックスだけを、新刊が発売されるたびに結局20巻まで買ってもらえた。最後の20巻目は俺が風邪をひいた日にヤクルトと一緒に買ってもらったのを覚えている。それと同じ頃、やっぱり風邪をひいたおりにコロコロコミックをはじめて買ってもらったことも覚えている。それまでドラえもんしかマンガを知らなかったので、それ以外のものもあるのだということを知って大変驚いた。これらの本や雑誌は、すべて近所の本屋に注文して買っていたようである。本屋にわざわざご用聞きのようなことをさせて、小学館の雑誌やなんかを届けてもらっていたのを覚えている。なぜそのようなことをしていたのかは覚えていない。たぶん本屋側の自主的なサービスだったと思う。

さらに近所のスーパーに買い物に行ったときに、ドクタースランプの3巻も買ってもらった記憶がある。なぜ3巻なのかはわからない。ドクタースランプはとても面白かった。毎日毎日、繰り返し読んでいた。

ある日母にすべてのマンガを捨てられた。俺がマンガばかり読んでいたので、それも、最近は教育上という点であまり評判のよくないドクタースランプを楽しそうに読んでいるので、母が俺を叱ったのだ。それに俺が口答えをしたため、母はこんな本は捨ててしまうと言って俺の手からドクタースランプを取り上げ、どこかに持っていってしまった。俺はわあわあ泣いたが、返してはもらえなかった。泣きやんでから自分の部屋へ行ってみると、ドラえもんの単行本もなくなっていた。20巻もあったのに全部なくなっていた。それからはしばらくのあいだ、まさか本当に本を捨ててしまったりはしないだろう、どこかに隠してあるんじゃないかと思って家の中をあちこち探してみたが、結局見つからなかった。

それ以来、俺の中ではマンガというのは読んではいけない書物になった。ものすごいタブー意識を植え付けられた。マンガに興味を持ってはいけないので、マンガというものが世界に存在しないかのように避けて考えるようになった。さらに隣の家のマーくんはたくさんおもちゃを持っていたが、うちにはおもちゃもそんなになかった。だからマンガもなくなると、うちには絵本とテレビアニメくらいしか子供の娯楽になりそうなものがなくなった。俺はドラえもんのテレビアニメを必死で観た。

やがて毎月マンガ本を届けてくれていた本屋が、「青い鳥文庫」を届けるようになった。マンガの代わりに母が頼んだのだろう。俺はガキだったので、マンガが手に入らなくなったことには気づかずバカみたいに喜んだ。俺には本当に娯楽がなかったのである。実際それらの本はとても楽しく読んだ。俺のぶんと姉のぶん、毎月一冊ずつ届いたが、姉はそのうち読むのに飽きてしまったため、2冊とも俺が読んだ。それから幼稚園に入る前から読まされていた福音館の「かがくのとも」や「こどものとも」などのシリーズも、まだ定期的に買ってもらえた。俺はそういうものしか楽しみがなかった。俺はいつまでも楽しい思いがしたかったので、次々に本を読んで、あの本を買ってくれこの本を買ってくれとねだったりするようになった。情操教育というものなのだろう。母はさぞかし満足だったろうと思う。しかし俺は本を読めば読むほど、家族と会話がかみ合わなくなっていった。俺はどんどん頭がおかしくなっていったような気がする。なぜうちにはマンガもファミコンもなかったのだろうか。本なんて教育には何の役にも立たない。そもそも情操教育などということ自体が間違っているのである。社会に適合した人間を作りたければ、本なんて読ませるべきではない。マンガを読ませて友達としゃべる話題を持たせてあげた方がずっといい。感性を養うなんて名目は立派そうだが、実際に感性なんていうものが花開いたりすることはない。近代的社会において役立たずの、バカのくせに神経質な魯鈍ができあがるだけだ。最悪じゃないか。あの時マンガを捨てられなければ、俺も社会にとって役立ち、よけいなことを考えてあれこれ迷ったりしない人間になれたのにと本当に思う。

 

 

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