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読む男 #40

ABC青山本店に寄ってユリイカの最新号を立ち読みしようとしたら、ないので、まさか青山のABC総本山ともあろうものが青山学院大学の学生が立ち寄ろうと思ったけど246の車通りが激しいので寄らないで正門左手の歩道橋で反対側に渡ろうとしたけどだんだんどうでもよくなってきて最近できた値段と量だけが取り柄のつけ麺屋「やすべえ」系(だと思う)の「あじろう」であつ盛りでも食って(行ったことがないのであつもりがあるかどうかすら知らないが)渋谷方面に金玉坂を降りて帰ろうとするABC青山本店ともあろうものが一時閉店してたときに看板の上に「閉店」とか紙をいい加減に貼ってただけのABC青山本店ともあろうものがユリイカを置いてないはずはなかんべとおもい、一生懸命探すが見つからない。

おかしい。死活問題なので30分ほど探す。が、見つからないので俺は死ぬことにした。つまりそのへんにいた女性店員に小声で「ユリイカありますか?」と聞いた。ら、最新号ですか?と問われ、そうです、と答える。そしたら知らねえでやんで、おっさんの店員のとこまで10メートルばかし歩いていって「ユリイカの最新号お探しのお客様です!」とかおっしゃりやがったので、お前、お前を殺して俺も死ぬ、と思った。そしたらおっさんの店員は「『ポスト・ノイズ』の号ですか?」とか俺に問う。お前ら、絶対わざとやってるだろう! 俺は辛酸なめ子のマンガのように戸惑いながら「え、あ、えー……」と答えた(違うのは知っている)。おっさんは俺の動揺に気付かず、「『ポスト・ノイズ』ですか?」とか言ってつかつかと3月号のとこまで歩いていく(違うのは知っている)。で、俺に見せて、「これですか?」と問う。「あ、あー、……違うような気がするなー(つーか違うんだけどな)」「毎月25日ぐらいには入ってるんですけどね、25日か26日には、入ります(ちなみに24日だった)」おっさんはとてもいい人そうで、にこやかだ。だが突然事件が起こった。驚くべきことに彼は「今月は、えーっと何の特集の号でしたっけー」とか抜かしながら次号予告を探してパラパラと高速で頁をめくりだしたではないか。なぜそんなことをする必要があるんだ! 危険がデンジャー! 緊急離脱せよ! 俺は、「あ……、あー、あー(ヨダレ)、あーああー、あー、いやー、そうっすね、なんでしたっけねー、いや、いいですいいですいいです、いいです。ていうかいいです。25日っすね分かりました、25日か26日ですね、いいですいいです、はい」と答えながらダッシュで店外に出た。ていうか、お前ら、絶対わざとやってるだろう!!

で、次の日もう一度来店して立ち読みした。「ブログ作法」の号。おっさん店員がいたので危険を察知し、顔を合わせないようにして通り過ぎ、素早く本を拾い上げ頁をめくる。完璧だ。こんなに苦労したのに、5分ぐらいしか読まなかった。ていうか、ホントは、買おうと思ってたんだけど、立ち読みして、5分でやめて、買わなかった。いやあ何ていうか、あれは、読んで最初に思ったんだけど、うーんなんかひどい言い方じゃないんですがマジメに言ってるんだけど、売れるんですか、と思った。これでいいのか? とか。ともかく内容だが、巻頭にははてなダイアリーについてで、あるが、「学術関係者だか文化人だかがなぜか多いんだよねー」みたいなことがばーんと書いてあるのです。はてなってー、ブログよねー。日記でー、で、巻末の方の「ブログガイド」の、さらにケツでばるぼらさんが一生懸命「コンテンツがない!」ということを説いているという、非常に皮肉かつ美しい対を成した本でした。だいたい「ブログガイド」が「メタブログ」から始まっている(松永さんが書いてた)ということで、これほど皮肉なことがあろうか! と思ったのでした。いやしかし、だからこそ「売れるのか?」と思ったのかな? ブログが面白いと思っている人が面白いよねーと、語る、記事は、誰に読ませたいのだろうってことで。あーそうかそうそう、だからこの本の読者って誰にしてるんだろう?→売れるのか?と思ったんだ。ブログというメディアを語るのに、そのメディアの中に注ぎ込まれているコンテンツについて語ることがない(できない)という不思議な状況は、まさに俺が「これがブログだ」と思っているモノに結果的に近かったのではあるけれど。でもそれもまた皮肉だよなあ。それって、何? 鏡? これについてはあと一週間後ぐらいに西島君のマンガについて書くときにもっと書くと思う。つーかさあコンテンツとコミュニティってインターネットの3大要素(そんなものがあるかは知らない。もう1つはアーカイブかな)の中でも相対してる店の多いものだと俺は前から思ってるんだけど、最近そういうことを言う人が全然いなくて本当に悲しいよ(※バカ向けかいせつ:「コンテンツ」とは「写真でひとこと!」みたいなもののことなんかではない)。「誰もがパブリッシャーになる時代」とかよくあちこちで言ってるけどさ、じゃあみんな何をパブリッシュしてるわけ? それってパブリッシュっていう言い方でいいの? 違うモノ? どこまでが一緒?そういうこと考えた方が何かおもろいことできたり言えたりするんじゃねえの? なんでそういうこと、誰も考えないんだろう。批評的とかって、すげー無自覚なのな。本当に不思議だ。

その後であるが、今日になって今週のヤンマガを読む。ヤンマガ久々に読んだ。非常に下劣な本になっていて感動した。素晴らしい。ここにはとてもダーティな意図と物語があるぞ。俺は思った。これだよ! キープリアル! そして思う。ユリイカには詩が載っているぞ。俺があの本を5分ぐらいめくって、一番衝撃を受けたのは詩だ。久々にユリイカを読んだので詩の存在を忘れていた。しかし詩がないとユリイカではない。それなのに忘れていた。そしてめくって驚いた。何かを感じた(詩の内容は作者の方には大変すまないが全然読んでないので内容にではなく、詩だということ自体に衝撃を受けた)。詩とブログ作法なのだ、この本。何かすげえ。ムチャクチャだ。文化人類学的な衝撃だ(本当かよ)。エスノメソドロジー的衝撃だ(嘘だ)。でもヤンマガのムチャクチャと方向が違う。なんか違うンという感じ。ヤンマガぐらい、マガジンぐらい過剰になれれば、何かになれるのかな。

あ、そうだ北田暁大の本について突然さっき思ったんだけど文学におけるパロディの系譜に全く言及せずにテレビをよりどころにして語ってるからやっぱいびつに見えたわ。そんだけ。

 

 

読む男 #39

たまたま空き時間があったので北田暁大「嗤う日本の「ナショナリズム」」を買って読む。俺はこの本、2チャンコロの本じゃないと思って買ったんだよね。で、読んでみたら、いきなり電車男を読んで泣いた話が書いてあって、あらーん? と思ったんだけど、それはたぶん本としてのツカミであってやっぱり全体としてはチャンコロ本ではなかった。チャンコロばんざい! という本なんて、たとえ俺が「2ちゃんねる大好き」だったとしても読みたくないはずだ。そしてその理由はの1つはまさにこの本に書かれているように2ちゃんねる的な言説がアイロニーを含んでいるから、そして俺が「2ちゃんねる大好き」ではないのも、この本に書かれているようにチャンコロはアイロニーを含みながら「感動」を指向しているせいだ。

チャンコロばんざい! という本じゃないくせに、オビに「キター」とか恥ずかしい(この本で書いてあるような言葉をあえて使うなら無反省的な)顔文字が書いてあるのは最低のセンスとしか言いようがないなあ、なぜ作者はこれを認めたんだろう? と思いながら読み進めると、最終章でこの本は後述するけどチャンコロばんざい本としか言いようのない地点に着地していて軽いショックを受けた。あははは。

ともかく、このまとまり方だと若い読者や社会学的な本にあまり触れたことのない人の比較的多くは、この本の言う「ロマン主義的シニシズム」を何か「新しい主体のあり方」として「肯定的に提示されている」ように感じて、「獲得しようとする」という、奇妙な行動に出てしまうんじゃないかと思う。作者が思っているほど、みんな賢くなんかないんだ。それは別にどうでもいいことだけど、書こうと思った意味として本が読まれないのは残念なことだし、その読まれない形が、書いてある内容に絡め取られているようなのは社会学の本としてどうだかなあ。

しかしさー、チャンコロが自己に自覚的であるということの根拠のひとつとして作者はzenhiteiの(ここで激しく笑った。あと、二階堂とか書いてあったのも笑った)言葉を引用しているが、チャンコロが「自分たちは踊らされる方が楽しいから踊らされているだけ」的な発言をする場合、それはやはり自分が完全にアイロニカルな位置に立ち得ている(2ちゃんねる自体からすら超越的な立場で発言し得ている)とするための免罪符として機能する。まさしくこの本が言うような「ヒきつつノル、ノリつつヒく」ということを彼らは念仏のように唱え続けながら、ロマン主義的な感動系に乗っかる自分を肯定してるんだよね。まあ俺はそこが気持ち悪くてずっと嫌だったんだけど。これってさー、2ちゃんねるの「閉鎖騒動」の頃から急速に表だったと俺は思うな。gzip圧縮を実装したりしたぐらいで数百万の借金がゼロになるわけないのであって、だいたい2ちゃんねるのサーバの維持費なんてほとんど言い値というか馴れ合いみたいな部分が多分にあるはずだと俺は思うんだけど、要は茶番なんだけど、チャンコロはその感動ストーリーにすんなり乗っかるんだよね。

でも、それは最初からそうだったんだと思う。それが最初から2ちゃんねるという板の特徴だったはずで、作者はたぶん、今の感動系な2ちゃんねるに、「もっと面白かったのにー」って思ってるはずなんだけど、2ちゃんねるなんてずっと前からそうだと思うよ。「まじめな人たち」が、「悪い奴ら」に「身をやつして」、「アイロニカルな立場を奪取し」、そして「自らの正義を語る」場所、だったよ。俺がチャンコロに対して気にいらねえなあと思うことの1つは、「2ちゃんねるにだっていいところがある」「2ちゃんねるで感動するとは思わなかった」という言い方なんだよね。この本に出てくる大月隆寛(a.k.a暴力でぶ)の2ちゃんねるについての文章が、「この『悪場所』、熱い議論や論争、真面目な論戦などが日々展開されている場所でもあります」から始まっているのもそう。こういうのすげー恥ずかしくないの? という気持ちになる。「なんだかんだ言って真面目であることこそ本来的です」ってんでしょ? 極めて形式的な、儀礼的な、手続きを踏まないと、「戦後民主主義的な価値観を突破」(そもそもこんな題目を掲げるのもどうか)できない! って言い張っちゃってるんだよね。うわー。

アイロニカルな立場というのは、この本の解説している理屈に近づけると、本来の自分の立場とは別の位置から対象を語るから効果を発揮するんだけど、俺の考えだと、聞き手に対してその「別の立場」こそが本来であると錯覚させればさせるほど、すなわち「本来の自分」の所在を希薄にすればするほど(隠蔽と言ってもいい)、アイロニーは強い衝撃を与える。2ちゃんねる的な自己目的化したアイロニーは、むしろ本来の自分の立場に対する説明としての側面が強すぎる。共同体内部のメンバーに対してだけ発せられるアイロニーゆえなのかもしれないけど、「私はここにいるんです! 私を見てください!」というのが透けて見えるなら、それはもうアイロニーではない。立っているはずの「別の立場」が逆に希薄になってきちゃって、高校デビューのヤンキー君が何か言ってるねみたいに見えちゃう。もうほとんど「ベタ」の境地で、「感動系」に接したときにも、有効だと思って大事に抱えてる「オレ達はわかってやってるんです」という免罪符が「別の立場」が希薄で、「えっ、何なんか泣いてんの?」とか思われてる、ということにすら気付きにくい。

もっとも、このようなアイロニーは2ちゃんねるのように共同体内部のメンバーにのみ発せられているわけではない。俺が正月あたりからずっと気になって書いていたテレビについての話で、俺は「管理されたわかりやすい相対主義が蔓延することによって、世人はシニカルな態度を装った規範意識を便利に使い回すようになり、おかげで善良な市民が気軽に悪ぶって生きていられるようになっているのが今だ。」と書いたんだけど、これはこの本でロマン主義的シニシズムとして語られていることそのものなのだ。正月には書かなかったが、波田陽区や青木さやかが流行るってどういうことなのか、マツケンサンバが流行っている状況って何なのか、そしてそいつらがテレビで2ちゃんねるに言及している意味とは、ってことを、俺は言ってたんだよね。この本ではわずかに「テレビはそれをすらテレビ的なシステムに組み込む」ということを言っていた(2個所ぐらいあった)けど、もうちょっと掘り下げていい話題だと思った。これは「テレビが2ちゃんねる化している」といえばキャッチーだし話が早いんだけど、そういうキャッチーな言い方でまとめてはいけないしね。あはは。

あと、2ちゃんねるというメディアに固有の現象について驚くほど語っていない。2ちゃんねるはいきなり他者とのコミュニケーションの場として登場し、インターネット掲示板が双方向的なメディアであるというのはどういうことなのか、とか、モニタというテレビのブラウン管に似たものから、活字に似たMSゴシックに乗って伝えられる「本当は単なるシロートの意見」が、私たちに与えるある種の錯覚について検証することなく説が進められている。2ちゃんねる的なコミュニケーションの行き着いた先において、自分のアイロニカルな判断の正しさが第三者との接続においてしか承認され得ないということを「アイロニカルであることが困難な状況」と作者は述べているんだけど、上記のような点を考えると、それはそんなに困難なことじゃなく、容易に形式主義的なアイロニズムに落ちていくはずだと俺は考える。

その他。作者は意図的に2ちゃんねるの「実況」的な掲示板の例を挙げすぎていると思う。「ニュース速報」「マスコミ」「実況」などの掲示板の住人が、80年代から連なるようなメディアに対するアイロニカルな視点を持っていたって、当然とは言わないまでも不思議じゃないじゃん。俺は2ちゃんねるに全然詳しくないけど、数年前からそういう構造を持っているのは一部の板で、専門知識色が高い板ほどそういう傾向を失っているような気がするんだけど。上記の3つの板が2ちゃんねるの代表ですか? 言いたいことは間違ってないと思うんだけど。社会学の方法論て難しいよなあ。あははは。

あと2ちゃんねるが「あやιいわーるど(こんな表記をする人はあやしいにはほとんどいないと思う)とあめぞうの正統な後継者」と述べているけど、えーと俺はそう言われても怒るような人じゃないし、そこに拘るわけじゃないけど、しかし、2ちゃんねるがあやしいやあめぞうの参加者に嫌われた理由はまさにアイロニカルな態度の取り方の相違だと俺は思うので、そこを作者的にはっきりさせておいた方が2ちゃんねるを際だたせたいこの本としては筋が通っていたかなと思う。「2ちゃんねるはあやしいわーるどやあめぞうとは微妙に異なり、大衆化したロマン主義的シニシズムをより推し進めさせた形で登場した」と書かれてあればいいのに。それなら、この本に書いてある、浅田彰がサラダ記念日について嘆いたのと好対照を成すことができるから。

まあこの本が「2ちゃんねるについて書いた本だ」というのは全く間違いで、この本は作者自身が自覚的なように戦後日本のメディア史をもとに「反省」を軸とした自意識のあり方をたどるものだ。しかし2ちゃんねるはその最後に現れる例の1つの典型として選ばれたに過ぎない(ということまでわざわざ書かねばならないほど読者というのは賢くなんかない)。が、しかし作者自身が2ちゃんねるに興味を持っているのは明らかだよなあ。つーか、それぞれの時代で、語りやすい典型だけを連ねて60年代〜00年代まで語るのは、社会学的なアプローチとしてはごくありふれてるはずなのに、なぜかちょっと辛い印象を持つのは何なんだろう。

俺は社会学に対して、多少無理があっても話として面白ければアリだなという読み方をする男なので、それでも十分に面白いところのある本だと思った。俺はそれでいいと思うのにさー、この人ずいぶんエクスキューズの多い人だよね。作者が「もちろん〜というわけではないが」「当然のことながら〜というのもあるが」みたいな書き方をするポイントのほとんどは言い訳だったよ。で、最後にあとがきを読むとコレもほとんど言い訳なのね。なんでこんなに右顧左眄みたいなことをしてるんだろう。ここまでエクスキューズが多いから、辛い印象をかえってぬぐえなかった気はするなあ。

あと、「処方箋を示せない」という作者の弁は、以前俺がたまたまこの人が「なぜ人を殺してはいけないのか、という問いに社会学が答えない」という苛立ちを示していたときに「社会学はそんなもん答えなくてもいいよ」とどっかに書いた(ここだったかも)のに通ずるものがあって面白い。「示さなきゃ!」という気持ちがこの人にはあるのね。その割に示せなかったということなのかな。まじめな人だ。だからこそ、「2ちゃんねるの人が書いたナンシー関についての文章、アイロニーが効いててちょっといいでしょ。だからいいよね」みたいなところで落としてあるのはどうかなー。わりと誠実に作ってある本なのに終章に近づくにつれてエクスキューズが多くなり、歯切れが悪くなっていき、最後の最後で「これもアリよね」で終わるのは見ていて辛い。

そういえば「2ちゃんねるの時代は終わった」ってのを見た2ちゃんねるに対して特に思い入れのない俺の周りの人たちの反応(チャンコロの反応は普通に罵倒するか「客観的な視点」をうそぶくだけなのでどうでもいい、無視していいと思う)は、一様に「勝手に始まったことにして、勝手に終わらせてんのね」であった。きっと思想の人たちは、2ちゃんねるの特異性みたいのにすごく興味があったのね。で、「感動」に持って行かれて「えー違うじゃーん」とか「2ちゃんねるは終わった!!!11ぬぬん」とか思ってるんだよ。うっかり分かりやすい方に行っちゃってるんだよ。インターネットのゲンロンとは、とか考えちゃうのよ。

今年の頭に人と、「今年インターネットで2ちゃんねるが流行る」という話をちょっとしたんだよ。俺はシニシズムがさらに大衆化した結果そうなると思ったんで「もうあれですよ、大手小町のように流行ります!」と言ったんだけど、相手は「インターネットが世界を変えるとか言ってる奴が2ちゃんねるからブログに行ったから、2ちゃんねるはネタでくだらなく遊ぶ奴だけが残って、結果として流行ると思う」と言った。どっちもこの本で語ったようなことを言っているんだが、この作者はひょっとしたら「だからこれからはブログの時代だ」みたいなことを言っちゃう人かもしれないなーと思ったら、今リンク先として参照したURLに「北田暁大」って書いてあってちょっとうひゃあと思った。ゴメンこれ読んでないっつーかあんまり面白そうじゃ、ない、なあ。しかし、さすが自分のコミュニティを「こうあるべき」とか語るコミュニティこと「はてな」が巻頭に来ているなあこの本。つまりそういうことなのだ!! でも西島君が表紙を描いてるのであとで立ち読みしよう(立ち読みかよ)。あーあとばるぼらさんの本、出るらしいぞ!!

 

 

読む男 #38

前回書いたハチクロの文章があまりに長いので気が狂ったと思われるところであったがエライもので俺は最初っから気が狂っているということが周囲に分かってもらえていて「いつもながらクドクドと妄言を書いてたね」などのようにいろんな人に言われただけだったので大変よかったと思った。

で、「G戦場ヘブンズドア」である。日本橋ヨヲコ。プラスチック解体高校とか極東学園天国の人だ。知ってる知ってる。どちらかというとこの作家は好きでヤンマガに載っていたときもきちんとした態度で読んだ。「G戦場」も知ってる。これを読んだことがなかったのは俺がIKKIという雑誌をそんなに好きじゃないからかもしれない。このマンガは特に、なぜか、インターネットで「いい」と言っている人をよく見かけた。なぜかは知らない。彼らはこれをいい言うのに、この人のほかのマンガをなぜいいと言わなかったのだろうと俺は思った。

が、残念ながら俺にはG戦場についてはあまり語ることがない。語ることがないというのは悪いことなわけじゃなくて、とてもキチンとしたマンガで、ちゃんと考えて作ってあって、お話は非常に分かりやすく、間違いがなく、そして俺はこういう思いがドバッと溢れてるマンガが大好きだ(だからこの人のマンガは好きだ)。

でも特に言うことがないんだよねこのマンガ。自分が「感動した」とすら言えないところが寂しい。俺はこのマンガの本気なところが好きなのに、同時にこのマンガで熱くなれない。というのはなぜかというと、このマンガが語っているところを俺がもう問題にしてないからなのかもしれないんで、それこそが寂しいことなのだ。いやーでもなんか違うぞ。 俺はこの人のマンガに描かれている、例えば、スカしてたってしょうがねえよということを、夢だと言って否定するのではなく、むしろ俺はいつでも本気で、他人にもお前は本気でやるべきだとか言ったりするんであるが、しかし同時に、それなのに、このマンガにバンザイできないのである。

というのはですね、この人のマンガには、本当に邪悪な人間が出てこないんだよね。理不尽極まりない暴力もない。といっても単なる暴力は存在するところが難しいのだが、結論から言うとおそらく作者は非常に優しい人なんだと思う。もちろん、とりわけ若者に。

ということについて今から話すが、先に言うと、この人のマンガには外部がないのだ。

俺が読んだ限りのこの人のマンガには乗り越えるべき(憎むべき)存在としての親がよく出てきたが、しかし、親は本当は子供のことをホントはよく考えてたりするんだよね。お互いに誤解があるだけだったりする。みんな一所懸命なだけでさ、傷つけあっても青空はひろがっているワケですよ。それから、頑張っているものや能力のあるものを否定する存在が登場しない。しても、そういう連中は全く力を持っていないんですね。でも、ホントの世界では、悪だって一生懸命悪なんだよと俺は思うんだよね。ムチャクチャ悪い奴とか、ムチャクチャ人のこと考えない奴とかだって、ものすごい力を持ってるんだよ。正義の使徒すら圧倒的じゃないかと真っ黒な心で呪いたくなるほどのニクイ奴がいるんですよ。でもこのマンガでは、そういう奴は出てこない。なぜ出てこないかというと、やっぱ優しいからだと思うんだけど、それ以外の理由としては、うーん、作者がそういう人間じゃないから感情移入しないのかなあ? この人は、しないことは、しない、という人のような気がする。物語には、それも大事だと俺は思うけど、しないことはしないってのもそれはそれで筋だとはおもう。まあそれはともかく、俺はたぶんそのせいだと思うんだけど、このマンガはストレートに読者の現実に訴えかけたいはずななのに、なぜか歪んだ位置からしか理解を示せなかった。この作者は、辛い思いをした人に、辛いとか言わないでちゃっちゃとやろうぜってことを言いたいはずなんだけど、結果として、あんまり辛い思いをしてない人か、辛さから決して立ち上がらない人、あと、既に立ち上がってる人にしか届きにくいメッセージになっていると思う。俺には届いてんだけど、俺はそれでいいのかなあとか思ってしまう。登場人物は、ほとんど彼ら同士と、そして自分と対峙するのに精一杯で、ものすごい圧倒的な力を持った悪いモノが現れたら、今んとこどうすることもできないと思う。だから、彼らはがんばっているけど、メチャクチャ本気だけど、まだ弱い。外部にさらされていない。それでもお前はがんばるんだよというところに届いていない。

で、なんでそうなっているかというと、この作者はこの世界を作って、それを閉ざしているからだと思う。それは優しさ故だと俺は思ったんだがしかし、カンだけど、たぶんこの人は、ホントにひどいことばっかり起こるマンガを全然描ける(ギャル語を私も使ってみました!!)んじゃないかと思うけど、それをしないのは、自分がそれをすると読者が傷つくと思ってるからか、でなきゃたぶん、独りよがりなものになるからなのかな。そのどちらでもなくて「自分もそれを読むのは辛いから描かない」だったら、それは単に甘いだけってことになるんだけど、この人はそういう人ではないんで、独りよがりな形でなく、ホントに辛いってのはこういうことだよってのを示せるようになれば、この人はもっとすさまじいマンガを描けると思う。ひょっとして「ホントに辛い」を既に描き得ていると、この人が思っているってことは、まあないと思うんだけどなあ。今の感じだと、内側からがんばる力が、外側の悩みをあらかじめ上回っちゃってるというか、大したことなく乗り越えちゃうんだよね。あらもういいの? という感じで。でも、内なる力ってスゴイですねというところだけで落ち着いちゃってんのね意外と。外の辛さにはあんまり言及しないの。外が何だろうが他人がどうだろうがやるんだよって話にまで来てないっていうのは、やっぱ世界が優しすぎるせいじゃないかな。

たぶんねこの人にとって登場人物の悩みがわがことじゃないんだよね。自分にとってはどこか通過した道として、先は明るいからがんばろうぜコラ、と思って描くんじゃないっすかね。そこがこの人のいいところでもあり難しいところでもあるんだと思うよ。結局登場人物はほぼコントロールできるんですよ全員。パワーのあるマンガなんだけど、作者が途方に暮れるほどひどいことは起きないし、起きそうな部分はキレイに隠蔽してあげてるんじゃないっすかね。それもまたパワーを使って。ホント、優しいというか、そこがいいところなんだけどね。

あー書き忘れた。この人は長期連載でのマンガを打ち切られなかったのはたぶんこれが最初なんじゃないかな。だから、まだまだ始まったばかりだよね。きっちり自分の見せたいモノを見せたはずなので、こっからまだもっとすごくなれるとおもう。

そういう感じでした。書いてみて思ったけど、すごくシンプルなのに意外と説明しにくい感想を抱いたのだなあ俺は。つーか、マンガをモチーフにしたマンガなんだけど、実はマンガに対する愛とかそういう話ではあんまりないので、全然マンガの話をできなかったな。例えばこれをバンドの話とかに置き換えてもわりと成立しちゃうんですよ。別に悪いことではないけどね。それが主題じゃないんで。紹介してくださった方ありがとうございました。でもガラスの仮面も面白いんだよ!! 次は二宮ひかるなんだけど読むのは「ハネムーンサラダ」でいいんだろうか(まだ言ってる)。

 

 

読む男 #37

先日ネットラジオで「ガラスの仮面の続きが読みたいけどない。困る。ガラスの仮面の中毒症状を抑えられるほど面白いマンガをぜひ紹介してくなさい」と募らせていただいたところワッサワッサと掲示板にマンガのタイトルを投稿してもらったので、せっかくなのでその中で読んだことがないものを全部キリキリ読んで感想をメモっていくことにしたのだった。

ということで最初に読んだのは一番最後に投稿された方の「ハチミツとクローバー」であった。非常に有名なマンガで、売れてる。俺でもタイトルも絵も知ってる。でも読んだことがない。で読んだ。非常に少女マンガ的な感性によって描かれた純粋な少女マンガ的なマンガであった。その証拠に絵の描き方も話の動かし方もかなり感性だけで作っている。というのはケナしているワケじゃなくて、久々に日本の少女マンガの流れに乗ったモノを読んだので待ってましたという感じであった(ちなみにこれを読む直前には全く偶然だが「花とみつばち」を読んでいた)。

が、しかしたぶんこれを少女マンガに分類すると違和感があると思う。もちろんこれを全体からして少女マンガと分類するモノではないんであって、マンガ的な作りが非常に少女マンガ的だなあと思ったってことなんだ。まずね、人間じゃない人たちが「キャラクター的にかわいいから」という理由だけで出てくるんだよね。という、作者のキャラクターに対する愛着の持ち方がまさに少女マンガ的だと俺は思ったんだけど、うわーこれ全然説明になってないや、えーと要するに作者は第一話においてキャラクターを全然人間として扱ってないのね。まず「森田先輩」というのはギャルが描くマンガによく出てくる「顔が普通にカッコよくてセンパイ的なキャラで、才能とかあって天才で、でも子供っぽくてエキセントリックな行動とか取ってみんなのトラブルメーカーで・でも・そこがかわいい〜ン」という、少女マンガ的にごくありふれた、読者にとってまたは作品の第一読者たる作者にとってすごくマンガの中に居て欲しい存在何だかなんだか知らないがやたらと見かけるようなアレなのである。これは萌えとかとも関わるすげー難しい話なので書き始めると俄然(ギャル語を私も使ってみました!!!)ハチミツとクローバーから遠ざかっていくのではしょることにするが、で、アレって絶対に現実に存在しない人間以外の生き物なんだが、それは「マンガだから当然」と言われたらそれまでなのであるが、しかしそういったものをいきなり用意して、作者はほとんど「マンガを描くのが純粋にスキ!」と言っている少女のようにキャラクターを人形遊びのようにもう夢中で画面内で暴れ回らせるわけです。

うわーこういう書き方すると何かケナしてるみたいだけど俺、語彙が貧困でダメだねー、で、もう1人第一話で登場する主人公の一人たる「はぐみ」も極端に人間外であり、「作者的にかわいい」ディティールをまとっているのです。が、しかしはぐみの方がまだマシであって(女子だからかもしれない)、ナイーブだったり傷つきやすかったり箱入り娘的だったりする天才な女子というのはここまで極端な形ではないけど存在することはする。し、彼女は「ナイーブである」という設定ゆえに「内面」を描いてもらうことができて、そのおかげで3巻以降では等身が普通になってたり別人かよというような顔を描いてもらえたりする。

が、しかし森田先輩はいきなり少女マンガ的「天才」として登場したので、一向に内面を持つことができない(だから6巻での彼の「自分探し」は中身が全くないのにいきなり始められたがために失敗する)。彼はそれでも途中まではまだ内面を作ることができたんだけど、はぐみにキスをした直後に展開を進めたくなくなった(この話は後述する)作者によって渡米させられ、アカデミー賞みたいのを獲っちゃうんだよね。これで彼はもう常人レベルに戻ることができなくなって、で、はぐみの才能を常人の皆さんに説明するためだけに「アイツはもっとデカイ場所で生きていくべき人間だ」なーんて恥ずかしいセリフを言わされるようなつまんない役回りになるのである。かくして彼は明らかに人間じゃないものになってしまって、彼が何を考えているか登場人物達には分からないし、同様に、読者にも作者にも彼が何を考えているかは分からない。本人にも(まだ?)分かっていない。ちなみに作者はそのことに気付いていて、2巻の巻末にある「ハチクロこれまで物語」というのには「でも案外自分でも自分のコト解らないでいるのでは?」と犬の口を借りて言わせている。

で、俺は思ったんであるがこのまま森田先輩が何とかしてマンガ内でみんなと同じ生き物として見せ場を作っていくにはA.死ぬ(空に顔が浮かび「死んだアイツに代わって俺がはぐみを甲子園に」などなどの感情を竹本に抱かせることができる)B.病気怪我事故などによって作品を作ることができなくなる(天才を常人以下におとしめることによってそこから別の才能を開花させる話にすることができる)C.過去(トラウマというものはそこまでの話の流れとは無関係に登場できるので便利。家族などに関わる悩みを乗り越えたりすると人間ぽい存在になれる)D.はぐみのことを考えると頭がどうかなっちゃってはぐみや竹本、周囲などにひどいことしだす(盛り上がるけど辛い話になる)E.芸術に対するごく普通の挫折(単純に作品が作れないとかライバル登場とか。これが一番よくないパターンだがとりあえず見せ場にはなる)などの方法しか残ってないような気がする。それ以外にもあるのかもしれないけど、どちらにせよ彼という人間は、もう物語の最後になってもそう簡単には読者に同じ人間として祝福されないような人になっている。でも、彼はそうやってるうちに物語の中で時間が経ってしまい何も成し遂げないまま卒業してしまったので、ムリヤリ3年生として復学していて、作者によって何かやるチャンスをあえて与えられている。

ちなみに「ハチクロこれまで物語」は全部犬のセリフになっているが、実は作者から見たマンガ全体に対する考察になっていて面白く、これを読むと作者は自分のマンガの読み手としてかなり批評的な目を持っているということが分かる(でもそれを創作に使ったりしないというのがとっても少女マンガ的)。

で、こういう構造を持ったマンガなんていくらでもあって、別にホントは珍しくないし、そのまま「かわいくて面白い」キャラクターを動かしていつまでも遊んでいるだけの少女マンガというのはいっぱいあるんであって、それが証拠に1〜2巻の流れはまさにそうなっているのね。でも面白いことにこの作者は「真山」が卒業するあたりで突然「みんなこのままではいられない」ということにハタと気付いちゃってて、それが作品全体のでっかいテーマとしてのしかかってくるのである。最初は失われてしまう真山に対して、「真山は寂しがり屋だ」というキャラクター性によってみんなから離さないような位置を用意したりするんだけど、当たり前だけどうまくいかないんだよね。時間がどんどん動いちゃうから。で、作者は腹をくくって「進んでいくみんな」の話をちゃんとやらなきゃってことになったので、2巻の途中で「お別れの日が近づいているのだ」というやや唐突に見えるモノローグが入ってるんだね。でも作者は、もうほとんど感覚だけでハッキリ何が問題なのかを自覚していて、で、ここがエラいというか変わってると思うのは、その問題自体は誰にも語らせないし、自分でも描かないんだよね。というか、むしろ作者は「お別れ」を半ば阻みたいと思いながら、でも神様たる時間の支配者として、半分ずつの気持ちでマンガを描いてるんだと思う。

つまり作者は登場人物自身よりもたぶんこの世界が好きで、みんなが進んで行っちゃうのがどこかで嫌なんだと思う。だからこのマンガは話が進みそうになるといきなり筋を放り出したりする。森田先輩とはぐみがキスしちゃったりして話を進行させなきゃいけなくなると森田が海外に行かされるというのがすごい典型的で、その証拠に、行く前と行った後では、行く直前のエピソードを反故にした以外のさしたる違いが存在しないんである(余談だが俺がこの作品に「人形遊び的」という失礼な印象を抱いたのは「人がいきなりいなくなる」という展開の作り方がやたら多く、すごく分かりやすくて面白いなあと思ったせいだ。しかもそのわりにそれは話を進行させるためではなく進めないためがほとんどというのが面白い)。あとヴィクトリア調のミニチュア家具とかも完成しちゃうとはぐみと竹本の関係について何かを作品として示さなきゃいけなくなるので、忘れられる。真山と理花が同じ職場になっても、なっただけでいきなり関係の進行が止まる。そもそも、彼らの恋愛の動機というのがすごく曖昧にされるようになっていて、それもなんでかというと、ハッキリさせちゃうと話が進んじゃうからなんだよね。第一話で竹本がはぐみにひと目ぼれする理由も「人が恋におちる瞬間をはじめてみてしまった」とか他人の目からしか語らせないようにしてハッキリしないぐらいなんだよ。最初はそれでいいんだけど、物語としてはどっかでとっかかりを作って話を進めなきゃいけないのに、全然そういうことはしないで、彼は鈍感なんだってことにして、なかなか自分の恋に気付かないねえなんてやってるうちにいつの間にか彼はずいぶんはぐみのことを好きになっている。これは物語的じゃないことなんだよね。

でも、そこがこの作品の最大の魅力で、この作品のリアルさというのは、そこから発している。本当はたぶん作者だって、つーかむしろ作者自身が、この世界のモラトリアムから離れたくないんだが、でも作品の時間が動いている。ので作者は登場人物に引っ張られるようにしながら、そしてときどき展開を中座させたり登場人物に思考停止させたりして抵抗しながら、でも時間に引きずられてるって話になっている(そして最後にはたぶんきっとみんな大人になる、はず)。それは先生の山田に対する「努力するか諦めるか、どっちかしかないよ。人間に選べる道なんていつだってたいていこの2つしかないんだよ」というセリフにも表されているんだが、つーかこのセリフ自体じゃなくて重要なのはそのあとに続く「けれど僕はこの時ひとつ嘘をついた。3つあったんだ。選択肢は本当は。でも2つしかないと信じていた方が道はひらけるから、3つめの答えを僕は口にしない」というモノローグなんだが、俺はこの話の登場人物が取っている道は今のところすべて「諦めないけど努力もしないで、なるようにしかならせないし、なれない」になっているように感じるんだよね。いつも登場人物達は大事な判断をしなきゃいけない状況になると、シーンが突然変わったりしてそれをさせてもらえない(する必要がない)。だから山田だってその後もやっぱり諦めないし努力しない。次に同じコトを指摘されたときにはほとんど変化がなくて、有限な時間だけが浪費されており、つまり、既に流されるしかない状況になっている。

ちなみに横道に逸れるけどそれは全員が最初からそうで、船のシーンで真山に「戦うのがイヤだから放り出そうとしている」と竹本は言われるけど答えられないし、山田も「ダメだって言われたけどそんなあっさりキライにはなれない」と言いながらも状況を変えるようなことは全くしない。

でまあ作者が3つ目の答えとして流されるってことを用意していたかどうか知らないが、作者が感性(話を進めたくない防御本能)で感じ取ってそれを隠蔽しているのか、計算ずくでやってるのか分からないけど、つーか違うと思うけど、「そういう状況に私たちがなっている」ということを登場人物たちがことさらのように口に出したりせずにすべて行動としてアウトプットされて流されていくっていう、結果的に生まれた作品全体に流れる登場人物の動きのありかたが、いわゆる物語的でないからこそのリアルさになってるんだなあと感じた。

あと思ったことはー、以上のように判断が保留されたままになっていることが多すぎるが故に、竹本は大事な主人公のはずなのに影が薄いんだねということだ。彼の内面がいつまでたっても描かれないのは、内面がないからだ。なぜなら、彼は前述のようにはぐみを好きになった理由すらよく分からない人物で、どんなに両親だののエピソードを描いたとしても、たぶん埋まらないんだよね内面。しかも現実の青春くんのように「僕には何もないのでは」とかいろいろがっつり思い悩むどころか悩むためのヨリシロすらないほどホントに何もないので、感情移入のしようがないから、読者も作者もこいつを「青春てたぶんこういうふうに悩むのよね(なんか違うような気もするけど)」という感じでしか好きになれない。実は彼と山田は学校と自宅以外の外部をほぼ全く持っていないという点で一致していたんだが、山田は「かわいい女子」として作者が楽しんで描いているし、かわいい女子としてのとりえがいろいろあるんだよね。しかも恋愛の話に大きく絡んで登場することに成功したので、どんどん外部を広げていくことができた。でもでも竹本には何もないままずいぶん話が進んじゃってて、特に恋愛に絡ませてもらえてないので、彼はチャリこいだって両親の話したって、まだ空っぽのままなのである。恋愛マンガかどうかはともかく、彼の恋愛を発端に持って来たマンガだしそりゃしかたないよな。つーか俺としては森田先輩も竹本も2人とも中身を与えられないままごまかしごまかし来てたので学校に残るしかなかったんだよね。学生としてもマンガの登場人物としても。だから俺としては本当は学校に残らないで物語にケリつけて終わる方が全体の筋が通ってるかなあと思ったんだけど、作者の中でケリがつかなかったんだから仕方がないんだろうなあ。

でも山田はわりと厳しく扱われだしてて、先生になんか言われたのに何も判断してないからあとで野宮に泣かされるんだよね。こういう罰を用意するところがこの作者が神様的である点だなあ。こっから大きな変化がはじまるのかなあ。いやーたぶんそれはないなこの話では。それがいいところなんだから。

そんな感じだった。全体としては俺のようなバカがちまちま考えをめぐらせるのに適したマンガでうれしい感じでした。こんだけ文章を書けるぐらいには考えを組み立てられたのでトクした気分。紹介してくださった方ありがとうございました。でもガラスの仮面も面白いんだよ!! 次は「G戦場ヘヴンスドア」。

 

 

読む男 #36

インターネットで中島らもの話をする人はあちこちで見かけたが、今週のスピリッツできまぐれコンセプトが1000回突破だった話は見かけない。きまぐれコンセプトは偉大だ。別に中島らもが偉大じゃないという訳ではないっつーか関係ない。そんなことよりきまぐれコンセプトのような偉大なマンガの1000回記念に誰も興味がないというのは不思議だ。みんなそんなにバブルが嫌いなのか。「ミーハー」の頃の森高千里と共にここ10年ほどの日本の文化を知る上で欠かせないのに見過ごされている存在の代表格である。俺的にはホイチョイの広告業界ネタとかトレンドネタというのは石橋貴明の業界ネタと同様におっさんが喜々としている感じで大好きなのに。女→エロという短絡的な発想とか新しいモノにすぐ飛びつき、すぐ忘れ、でもちゃんと覚えてはいる、とか、経済の話を中途半端に盛り込んだりする(でも何とかそれを口説きネタにしたりする)あたりがオヤジ的で素晴らしい。オタク的な知識の集め方とかをしてるのに、スタンスがオタクやおしゃれサブカル少年少女とは全然違うのがいい。愛情だけでメディアを作ったり消費したりはしないし、わざわざ愛情の発露を歪めたりはしない。彼らには文化にサブもメインも定めないし(モテれば何でもいいとも言えるが)、すべてをオーバーグラウンドとして扱うし、いいと思ったものはお金を大量に使ってそれを世間に広めたりする。軽薄さのせいでほとんど指摘されないが、ホイチョイはその軽薄さをもってして、「貧乏なのに高級なオモチャ買っちゃったよー(笑)」などとオタクやサブカルっ子が自嘲気味に話す自慢話を黙って否定しているのである。そもそも今この時代に頑なにバブルを持続しているプライドの高さは素晴らしい。彼らには金すらあり、仕事すらできる。そして知識をちゃんと持っている。生活も趣味も安定しており、メチャメチャハードな仕事をしているが泣き言を言わない。圧倒的に強い存在なのだ。だいたいあのマンガ描いてる人だって絵とか普通にうまいっていうかトーンとか見てると思うがしっかりしたテクニックがあるのね(マンガ的ではないが)。ホイチョイはそういう人たちで、気まぐれコンセプトもそういう人たちがいっぱい出てくるマンガで、昔はそういう大人がいっぱいいたんだけどなあ(悪い意味で)。こんなマンガ描こうと思っても絶対誰も描けないのになあ。で、今週は1000回記念ということでバブル崩壊直前の1989年にタイムスリップしてバブル崩壊を防ぐという話だった。ちなみに初期の内容をまとめた単行本は1つだけ出たことがある。未見なので持ってる人は貸してください。単行本が出たのは作中に出てくるプラザ合意が行われた前年の1984年だ。でも今週の気まぐれコンセプトはそんなことには全く触れずに、ヘラヘラしながらティラミスとか平家派とか芝浦GOLDの話をしている。恐るべしホイチョイ。

 

 

読む男 #35

僕の友達の西島大介くんの描いたマンガ「凹村戦争」がついに発売になったので、ニーツオルグを読んでいる人は俺の友達だけなので全員知ってると思うが、みなさん買ってください。お近くの書店に俺はなかったので渋谷で買ったが、渋谷に行かない人は、お前らインターネットの人らしくamazonで買えよな。代引きで。カード使えない人はホント代引きって便利なサービスですわよね。真人間どもは割高になるとか抜かしてるがカード作れない人種はいつもニコニコ現金払いなんだよこのハゲが。

話が逸れた。凹村戦争。おーそんせんそうと読む。発売日に買えなかった。次の日渋谷ブックファーストで買った。バガボンドのとなりに置いてあったよ!! 西島くんが待ち望んでいた世界はコレだと思った。井上雄彦並みというのは、えらそうな意味じゃなくて、メジャーでポップでキャッチーでリアルスタイルなものってこういうことじゃん!! ということである。必! 殺! 西島くんはこの事態を喜ぶだろうなあと思った。

で、買って、外に出て、ブックファーストの前でざっと読んだ。そのあと会社行って家に帰って読んだ。いま三回目を読んでいる。感想を書こうと思ったがなかなか書くヒマがない。ちなみに読んでいて最初に感じた感想っぽい感覚は、ロッキーのポスターと通学路の標識が見開きで対置してあってデザイン的だなということだ。

あと宇宙の存在が何となく「度胸星」のテセラックを思わせた。西島くんは度胸星を読んだかなあと思った。あれ面白かったよなあ。

映画好きだよなあと思った。

(みんなが全然誉めないところの)初期の岡崎京子と同じ感覚があるなあと思った。このマンガの登場人物は明るすぎないところに希望があるが、暗すぎないゆえに絶望しているなあと思った。それゆえ最後の13話はほかと比べると異質で、ある種の絶望について描いてあるのだが、放っておくと何もなかったようにしてしまえる。という真の絶望がある。のだが、時間がなくてうまく書けない。

ちゃんとした感想は、あとで書きますので、忘れてた俺の知り合いの人はかっといてください。aたったの1300円ですごいいいおもいができるので。mazonは、あふぇりしえいととかいうののやりかたがいまだによく分かりません。みんなやってるよなあれ。楽しいの?

 

 

読む男 #34

> ギリギリ理解できる範囲での若者を提示することで、若者全体を理解した気に
> なりたい中高年にささったのかなあという仮説。おれからみればむちゃくちゃ
> 分かりやすいけども、決して主力層ではないあの2人のキャラクターが、ちょ
> うどいいかんじだなあと思うのであった。恐怖や畏怖を抱かない程度に適度な
> エッジ感と、それに伴う適度な安心感の両立。いいところ突くなあってね。
> ・・・というはなしからテーマの話はでているのです。わらい

これは俺的に考えたいことなのでここに書くけど、そうだよなーそういうものを戦略的に生み出せるってことが最も時代的といえる受賞なのかも、と思った。

日記ちょうに書いたのとかぶるけど、みんなが言ってるような「テーマ」自体については、僕は例えばこれが10年前に出ててもみんな「テーマが現代的だ」といっただろうと思うんで、興味がない。で、そこをだまくらかして商品にしたモノこそが現代的だ、というふうに話を進めるならば、「男性の作家がだらしない」みたいなことはおそらく言えないんだという現実が見えてくるんじゃないかと思うな。賛同されるかどうか分からないけど、綿屋りさは形の違うスニーカー文庫ってことで。決して登場人物の心の動き如何に何かきわめて新しいものがあるわけじゃないのであり、それ以外に現代的な感動があるとすれば、そういう若いキモチがこういうプロダクトとしてよくできた、消費しやすい形で発露する点にあるんじゃないだろうか。僕はもちろん「ほしのこえ」みたいなものを今念頭に置いて書いているわけですが(あとで思ったがガンダムSEEDのほうがピッタリかもしれない)。萌え小説をおもしろがって読んでる連中というのは無意識にそういうことに気付いていると思います。

どーかね全然的はずれだろうか。よく分からないのでしばらく考えていきたい。まあいいや。というわけで今忙しいのだがヒマを作りながらちょろっとだけ10ページぐらい新しい「ファウスト」を読んだ。

 

 

読む男 #33

80年代はひとつのターニングポイントだったんだって。バッカじゃないのぉ? 80年代にそんなこと言ってる奴いなかったよ? ならお前、知らないだろうけど今ってターニングポイントだよ? いつだって今はターニングポイントだぜ! てめーは80年代の話でもしてろ。

 

 

読む男 #32

モーニング読む。沖さやかのマンガは売れたそうすぎてなんかやだ。作者はマジメな人だと思うので読んでいてよけいつらい。えーここで終わりかよ暁星記。第2部の時もそう思ったんだ。シバオーとかOL四コマとかは俺的には何で載ってるか分からんモノだが、サラリマンマン的需要としてはこれで正しいのだろう。頼むから静かにしてくれは面白いな。六田登。普通に面白いな。野球狂の詩は相変わらずスゴイはナシだが水島マンガにそんなこと言い始めたら大変なことになる。

 

 

読む男 #31

チャンピオンすごいよ! かおてぃっくるるーん! もうテコ入れなのか何なのか分からなくなってきたよあのロリ女がこないだまでスク水で首輪につながれていたわけだが、それだってどう考えても無意味なのだが、先週ぐらいから上半身裸でブルマで手錠で、四肢切断の上機械の身体を与えられてますよ! 鉄郎だってネジどまりだったのに!  という文章を書いていたようだ。実にくだらなくて唖然とした。とりあえずこのままアップすることにした。

 

 

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