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読む男 #50

というわけでユリイカの増刊のやつをよんだ。こないだも書いたけど、意外にも思うことがあった。意外にもというのは、この本が出る直前だか出た直後だかにネットでオタク対サブカルだ前哨戦だ何だかんだと恥知らずな論争みたいのをはてなラーの人たち(なのかどうかも知らない)がやっていたので、なんだか持病の癪が出て(嘘だが)、すっかり読む気をなくしていたのだ。結局は何ですか、これもトピックの1つとして消費なさるわけね気持ちわるーいとか思った。それについては、読み終わった今も、あんなケンカごっこみたいのは本で語られていることとは全く関係ないし、語られていることと関係ないことがなぜみんなの楽しみとなるのか俺のような魯鈍には理解できないので、嫌だなあと思う。がしかし、ようするに、この本は俺にとって面白く読めたので、この本についてそんなことをする(そんなことしか、しない)理由が分からなかったのである。あと、「ま、コレはコレとして」とか「興味がないけど買った」みたいなしょーもねえ一言を挟んだりとか。何なんだろうねアレは。だが、なぜそういうことが起きたのかというと、あとでちょろっと書くけど、ひょっとしたらネットと本のあり方の違いのせいなのかもしれない。

まず表紙は差し替えになったとかどっかに書いてあったような気がするが、違ったらすまないが、しかしこれはこれで面白く感じた。なぜならガンダムはシルエットなのにファンタズマのヘッドホンは写真なのだ。これはなんとなくオタクとサブカルのあり方を対比しているように見えて(見えるだけかもしれないが)面白い。

で、中身であるが、読んですぐにああ、これはいいやと思えたのはなぜかというと、オタク対サブカルの本じゃなかったんだよねこれ。タイトルがさあ、「オタクvsサブカル! 1991-2005ポップカルチャー全史」って感じで書いてあるけど、「1991-2005ポップカルチャー全史オタクvsサブカル!」でもよかったような内容なんだね。いやあ、赤田祐一が言ってるけど特集のタイトルとしてはそりゃ断然前者なんだけどさ、しかして後者なんだよね、これは。この本は。つまり、これは我々の時代についての本で、ついに、我々の時代がユリイカの主役に来るような時代になったのだ。90年代を過ごした人が、今まで見過ごされていた「我々のアレ」について一冊本を作れたという、世代は移り変わってますよというアピールですらある、とても大きな意味を持った本になってるんだよね。「我々のアレ」とはもちろん「オタク」と「サブカル」であって、それこそが、90年代に広義の「サブカルチャー」に触れた人にとってのキーワードだったんだねえという、まさに「1991-2005ポップカルチャー全史」を語る切り口となっているわけだ。

それから、まとめというと年代史的なモノを想像しがちだが、この本は全然そういう本ではない。あくまでユリイカらしいので気に入った。逆に言うと、だから、たぶんこの本は、年代史が読みたかった(たぶん若い)読者と、「(いんたーねっととかでわだいの)オタクとサブカル最終決戦の巻」が読みたかった忙しい現代人な読者には嫌われると思う。

ともあれ、とっかかりとしてそれが伝わったんで、俺にとってこの本のはもうぐんぐん伝わってくるのであった。巻頭では京浜兄弟社でありナゴムである岸野雄一と、初期のクイックジャパンの「あの」イメージそのものである赤田祐一が、「僕らがあの頃見ていたアレを作った人たちは、当時どういうつもりでアレを作ったんだろう」そして「アレを作った人たちは今をどう思うか」という意味で、インタビューされているのだ。俺は赤田祐一の、紙のメディアを愛する、まさに編集者らしい感性がとても好きなので、インタビューを受けながらもこの本自体に対して常に「なぜそうしないか?」という姿勢での発言を行っていて楽しかった。

そして、巻頭の二人が二人ともインターネットに重きを置いていないという面白い姿勢の共通点が明らかになっている。特に二人ともネットの検索性にノイズが混じらないということを気にしていて、Amazonでピンポイントで商品が見つかるのは嫌でたまらないし、「おすすめの商品」とか書かれるとぞっとすると思っている俺には頷ける部分が多かったのだが、その話の聞き手がばるぼらさんだというのが面白かった。ばるぼらさんという人は肩書きがネットワーカーさんなわけであるが、実は「ばるぼらアンテナ」を作った人でもあり、これはなぜか「教科書には載らない日本のインターネットの歴史教科書」という本には載っていないし、ユリイカの読者もインタビューされている人もたぶん知らないかその意味に気付けないようなことであるが、つまり、あの人はある意味で日本の個人サイト界隈にノイズが入らないようにした、ほとんど最初の人なのである。その人が「直感」とか「発掘」について語り合っている図というのはいろいろ考えさせられた。

で、次に登場する吉田アミさんは、あの頃に子供だった人がいかにしてアレを吸収して立派な大人になったかという話をインタビュー形式で聞いているわけである。これは前の2人と対比して、ウェブをどういう気持ちでやっているかとかが入っていて面白い。つーか、ここまで、ちゃんと企画に意味があって編集されている、いい、と俺は思った。

一番いいのは、これがウェブにはないということだ。同じ事をウェブでやろうとしても、Web2.0なんていうことすら普通に言われるインターネットでは、これはたぶんありえないのである。企画されて編集されたひとつなぎの読み物なのであって、ネット世代についての話が、紙の編集力によってねじふせられている。俺はネットが好きだけど、紙の力だってあるのである。そして紙の力ってのは、どうしてどうして編集の力によるところが大きいのである。ウェブサイトでは、個人的な感想がバラバラに並んでいる、という状態しかいまだに作れない。ヘタしたら、時代どころか、たった1冊の本についても、誰も満足にまとめることができない。何かの意図を持って文章を構成していくなんてことは、全然できていない。ウェブにないのはそれであって、この本は存在自体でそれを主張できている、いい本だと思う。すごいんだよちゃんと主張して一冊の本として存在させてるんだよ。

しかし、だからこそ、その次の吉田アミ全仕事は、この本に関してはいらないと思う。その内容自体に意義がないわけでは決してないし、企画でインタビューした人について「全仕事」が付いているような(サブカル)雑誌を俺は嫌いじゃないが、しかしそれでも、「オタクVSサブカル」に「吉田アミ全仕事」を入れるのは、どっちに対してももったいないと思った。もしくは、これを載せることについて説明的でなさすぎると思う。まあしかし、そんなこと言ったらこの本には説明的でない部分が多分にあるので、いいのかな。俺にはよく分からない。

次のかのせさんとばるぼらさんの対談(俺の名前が予期せず出てきて笑った)は、この本のちょうど核になっている部分で、ほかのページを参照させられる部分がたくさんあってよかった。例えば、かのせさんはオタクは、モテを拒絶し、女子に対する「媚び」を拒絶する存在であり、それがサブカルに対する敵視に繋がっていると語るのであるが、それはばるぼらさんによって「典型的なホモソーシャル」と言われ、そしてそれはデミせんせいの文章にそのまま接続される部分になっている。

デミせんせいの文章は、これは本当に素晴らしい名文なのでまさに必読だと思うのだが、「オタク対サブカル」という図式は、突き詰めれば80年代半ば以降に「シティボーイ」による糾弾によって社会的な居場所を失ったオタク達が、自分たちの男性性を回復または保持するために導入した「旧制高校的な硬派スタイル」(ようするにバンカラ)の延長線上にあり、彼らがそこで切り落とした「かわいい」価値観が「萌え」によって回復されているということまでちゃんと暴いてある。スゲエ。これは今デミせんせいにしか書けない、とてもいい文章だと思う。文系男子という同種だった存在の中から、シティボーイが生まれオタクを差別するに至った話なども、読んでいてとにかく面白い。

その後の乙木さんと田口さんの文章は、80年代サブカルが、いかにしてオタクになったかという話と、オタクがいかにしてサブカルになったかという話で、この2つは対になりながら、この本の前半までの主張を補強している。野中モモさんの文章は、これら2つと同等のものなのだが、デミせんせいの文章をこうふんしながら読んだあとだと何だか「そのとき女子は何をしてたか」という図に見えてしまう(もちろんそんなことは書いていない)。

で、次の更科さんの文章にある「内ゲバ」というのは、デミせんせいの文章にあった文系男子の中でオタク差別が始まった話と呼応しつつ、かのせさんが対談の中で言っている「同族嫌悪」「今言われているオタクとサブカルもそういう流れで、カルチャーが隣接したときに、差別ゲームがはじまってあいつらムカつく、といっている」というのに接続される。つーか、俺はかのせさんが「オタク対サブカル」を「差別ゲーム」だとハッキリ言うとは思っていなかった。とても意外だった。オタクとサブカルを定義した上で対立構造を図式的にキレイに説いていくような本にしていくのかな? と思っていたので、そうじゃなくて、この本が、メインタイトルとして持っている「オタク対サブカル」という対立が内ゲバであり、究極的には対立をすら成していないということをホストの方々がよってたかって示したがっているというのが分かって、俄然俺はこの本好きになったねアハハハ。

その対立の構図が用意されたのが90年代だから、対談のタイトルは「15年戦争」なんだよね。しかし90年代なんてすげーよなあ宮崎勤から始まるんだもんな。というわけで90年代という時代の特異が次第に浮かび上がってくるんだけど、ここに至ってはもう巻頭の岸野・赤田両氏のインタビューをうまい具合に離れていていい感じ。ちゃんと、アレを作った人の話なんかではなく、消費した世代の話になっていると思う。近藤さんの文章はそれをガイドするものになっている。で、そのとき確かに存在したのだけれど、現在オタクが極端にクローズアップされ、その便宜的な敵としてサブカルがクローズアップされた現在において隠蔽されたものを示しているのが屋根裏さんの文章になっている。屋根裏さんの示しているモノと、デミせんせいが「乙女」として提示したモノは、確かにキャッキャ言っている「オタクとサブカル」が見過ごそうとしているモノなのだ。

見過ごそうとしていると言えば、かのせさんは90年代の格ゲーなどかつての「オタク」像が半ば意図的に見過ごしているものを示しながら、90年代の半ばには既にオタキング的なオタク像が通用していなかったことを示してるんだけど、それが最後の前島さんの文章につながっている。というか、この前島さんの文章はとてもいい。俺感動した。なんでいいかというと、この文章は、この本全体から外にある、じゃなくて、この本の先にあるのがコレなのだ。だから本の最後にあるのだ。

つまり、オタキングが示す「オタク」からあらかじめ除外されたオタクっていうのは、実はおそらくはかのせさんの持つオタク像にとっても異質になりつつある、「次」の世代を感じさせるもので、ばるぼらさんとかのせさんの対談では「歴史認識がない方が新しいものを生み出せる時代なんでしょうね」と、ひとまず言及することまでしかできなかったものが、リアルな問題としてこっちにはあるように感じられたんで、俺はそれに感動した。かのせさんがあげている「ひぐらし」とか「ガンダムSEED」とか「ファウスト」などの最先端のオタクアイテムを、ちょうど田口さんや乙木さんが消費したのと同じように熱狂しながら消費している人々に、たぶん最も近いのだ。文章的には、「世代は順番に移り変わっていって、それぞれに断絶するよ」というわりと甘めな結論が書いてあるのだけ残念だったけど、それでもとてもいいと思った。なんで残念かというと、世代間の論争という図式を安易に描くと超つまらないから。いや、そんなのどうでもいいやね、という結びではあるんだけど、それを言っちゃうとまずいよなあということが書いてあるように感じた。好みの問題かもしれないけど、この本を読んで、この本の世代に触れていない人が、俺の話じゃないです、終わり、と閉じてしまうことについて、もっとイヤーな感じで煽る感じになっていると、二重三重にイヤミが効いていて俺好みだ。アハハハ。ともあれ、そうして、今まさに00年代は移り変わっているのだし、例えば「腐女子」についてだって、もう既にこの本が説明した地平とは違う何かが生まれているような気がする、そういう部分をちゃんとフォローする文章が最後に来ていて、よかった。最近のユリイカについて「ユリイカがこんなことするなんて」とか最近何人かが言っているのを聞いたけど、俺にしてみればユリイカってのは、常に時代について行きながら、そのときの同時代の感性を説明してみせることに意義を感じてる本だと思うんで、真骨頂という感じであった。

というわけでこの本は時間がないとか言ってたような気がするわりに、ちゃんと作られていてよかった。いや、たくさん載せられている雑誌・書籍の表紙の中には、何でここにコレがあるのかイマイチ分からん、というのもあったけど。しかし、目指すべき主張が明確だから短期間で形にできたのだろうか? 問題点が指摘しやすくまとめやすいお題だったからか? 何にせよこういう、バックに言いたいことがきちんとあって作ってる本は好きだ。しかし、もちろん、「1991-2005ポップカルチャー全史」を語り「尽くす」本ではないので、これを踏まえて、もっともっと突っ込んだ90年代と00-05が知りたいという気にもなるが(赤田祐一のモーヲタに対する指摘などは人と話していたことなのでとても気になった)、それはきっと、この本でひとつの見解が示されたのだし、今後どんどん読めるようになっていくだろう。

あと、読む前に聞いていたような、もっと他に連れてくる人いるだろうがよ、という気にもならなかった。そう思った人は、読んでみるとたぶんあーこれでいいんだって思うと思うな。それでもこの本が嫌いな人は、最初に書いたように、年代史が読みたかった(たぶん若い)読者と、「(いんたーねっととかでわだいの)オタクとサブカル最終決戦の巻」が読みたかった忙しい現代人な読者であって、ようするにここに書かれているような問題を、世代はともかく、我が事として捉えられないような人なんじゃない?

西島君のマンガについて書き忘れた! 少年マンガかっこいい!! つーか最後のページでゲラゲラ笑った。

 

 

読む男 #49

ゆきえさんちに行ったらなぜかめぞん一刻がおいてあってちょっと読んだら面白かったので家に帰ってきて全部読む。この話は小学生ぐらいのときに立ち読みで読破して以来読んでなかったんで、ほとんど覚えていなかった。しかもアニメの印象が強すぎる訳であるが、実際読んでみるとアニメと全然違った。違うというのは音無響子というキャラクターについてで、何が違うと思ったかについては後述するけどアニメの印象が強すぎるのも困ったものだなあと思った。ともあれ、この話は青年誌に描くことになった高橋留美子がかなり精力的にいろんな変化を(うる星やつらに対して)付けようとした作品であり、1〜3巻ぐらいまではパターンを打ち破るために細かく注意が払われている。あとねー話としてはすごい普通のラブコメなんだけど、つーかこの人って女の人の心理描写がものすごいうまいね。特に音無響子という主人公は(読めば分かるがこの話の主人公と言えるのは五代ではなく音無響子のみである)、最初の構想ではものすごい微妙なバランスを持ったツンデレキャラとして作られていて感動した。アニメになるとこの微妙さが表現しきれず、おしとやかなお姉さんキャラが前に出すぎているのである。注目すべきなのは音無響子はもともとセクシーキャラだということだ。青年誌に合わせているのか何か知らないがやたらとパンチラおよび乳バンバンである。服装もボディコンシャスなものばかりである。3巻までは。このへんはうる星やつらの女子キャラクター造形に近い。それはともかくセクシー・お姉さん・ボケ、であって、かつ、気が強いって感じなんだよね。「素直になれない」というのもあるけど、それ以上に勝ち気だ。五代を中心とした住人に対する怒り方よりも、両親に対して再婚を拒否する態度とかにそれがよく現れているんだけど、実はすごく我が強く、強気で勝ち気でワガママというのがこのキャラクターなんですね。だからお姉さん色が前に出ているアニメ版は間違いじゃないけど、全然正しくない。今アニメ見たら両親とのケンカシーンとかは割とハデに描いてあっていいんだけど、ほかの怒ったシーンもあのぐらいやればいいのに。でもこのキャラクター性というのはすごくいいバランスで、維持するのがすごく難しい微妙さを持っていると思う(ちなみに人物としてリアリティがある、というわけではなく、マンガのキャラクターとしていいバランスという感じ)。だからマンガ版の方でも途中から維持しきれなくなっている。特に、このめぞん一刻というのは高橋留美子がうる星やつらの後期と共に作中の女子に求めるファッション性をセクシーさからオタク的ファンシーさに移行させていったのと同時期にあたっていて、3巻ぐらいまではホットパンツとか無意味にエロい恰好をしているのに、3巻以降は次第にコンサバティブなものになっていき、最後にはやたらと胸の位置が高くてフレアーのばさっとしたワンピースルックばかりが登場するようになる。らんま1/2以降はずっと女性キャラの服装はこんな感じなので、高橋留美子にとって女性のキャラクターのルックスに求める「かわいらしさ」はめぞん一刻の連載中(うる星やつらの後期と同じ)に作られたと思う。話が逸れたがめぞんですが、4巻以降は一通りキャラクターが揃っちゃって、疲れたのかなんか知らないけどマンネリ化するんだよね。6巻まで。とてもいい世界とキャラクターができたからこれで安心とかって動かしてると、例の高橋留美子のドタバタラブコメにしかならない上になぜかマンネリ化しちゃうんだよね。野球やる話とかお化け屋敷の話とかレオタードを買う話とかはそうだよね。で、7巻でそこまでの流れに区切りが付けられて、音無響子は亡夫のことをすっかり忘れて「今はまだ再婚しない」とか言ってたくせにすっかり「やっぱり五代さんの方が……」とか天秤にかけてるじゃねえかよということが明らかになります。ちなみにこの天秤にかけるというのが以後この話の大半を占める次の展開だ。同時に、以後は服装はほとんど完璧にコンサバティブになる。「こうしてる方が私……」とか言っちゃって全然貞淑じゃないんだけど、このシーンというのは五代との関係が進んだというわけではなく、主人公である音無響子さんが亡夫のことを忘れて欲情しているというシーンなわけで、しかもそれでいてカマトトぶっているのでこの女ムカつくこんなマンガ全然好きになれない女性はけっこう多いと思う。以後ずーっと三鷹と五代を天秤にかけ続けるわけだが、どっちかに転びそうになった後で元の鞘の三角関係に戻ったらこの女はほっとしたりしてるふざけた奴なのである。でも、作者もそれに気付いていて、11巻で主人公が八神に雪の中で「弱虫」と罵倒される話とかはとってもよくできている。響子の心情として「新しく誰かを好きになったらだんなさんへの思いはウソだったってことになる」というものが示されるが、実際には7巻の時点で既に心は傾いているというか、7巻以降は完璧に「旦那のことが忘れられないから再婚できない」ではなく「どっちを選ぼう」という話になっているわけで、だからこれは嘘である。八神が言うとおり、響子は独占欲が強いくせに勇気がなくていくじなしで見栄っ張りなだけなのである。で、元気づけてやろうと思った八神が、響子の顔を見るとやっぱり「弱虫」と言い放ってしまう、というのは、音無響子の問題はすべてそこに集約されているからで、彼女が「元気を出す」としたらそれを何とかするしかあり得ないということなのである。八神はそれを女子高生という「子供」故に言い放つことができるのであったというこのエピソードは大変よくできていた。

それにしてもこの話は作者がものすごい明快に路線を変えていくというところが一番面白かった。例えば天秤にかけてみたところでやっぱりマンネリが解消できないかもと思って、ああそうかうる星とかと同じく新キャラクターを出せばいいのかな的に二階堂とかを出すんだけど、作った世界がギャグマンガ的になってないのでうまくいかないんだよね。次々に新しいキャラクターが出てきて、どんどん消費していくと世界がメチャクチャになるということに、二階堂や一の瀬の旦那のエピソードを描いて気付いて(二階堂な本当に話を作るためだけにとってつけたように作られたキャラクターでかわいそう)、途中からは五代と響子をくっつけるために何をしなきゃいけないかという部分を一個ずつ埋めていく話にしてみたりとか、1つ1つのエピソードの作り方がすごく劇的に変わる。器用な人だなあと思った。

で、最終的には五代はともかく八神の件も含めて天秤にかけるということがどういうことなのか響子に迫っていく展開になっていくんであるが、迫れば迫るほど勝ち気+ボケなお姉さんキャラだったはずの響子は「こいつはホントは単なるカマトトだ」という部分ばかりを露呈させられていくのである。三鷹に押し倒されて動揺する前後のモノローグなどは非常にいい感じでイライラさせられる。自分がそういう女だということには、三鷹に「あたし…本当にいい加減で…こんな形になるまで…ごめんなさい…」とか言う程度には気付いてはいるのだが、しかし最終的に朱美に「みっともない顔…ろくに手も握らせない男のことで、泣くわわめくわ、どうなってんの。あんたみたいな面倒くさい女から男とるほど、あたし物好きじゃないわよ。バカ」と言われるのである。

ちなみにこのシーンは、作者が神の視点として個人的な意見を持ちつつ、かつ、それとは別のこととして、あくまで各キャラクターの性格に応じてすべてが動いていて、すごくいい。だから、響子の心情もちゃんと尊重されるのである。乱暴な物語だと、このキメゼリフで響子にあっさり変化が訪れていきなり話がぐっと進んでしまったりするのであるが、この話では、五代とホテルに行くには行くが、「やけっぱちとか同情」と五代に指摘されて、「そんなんじゃない…あたしは楽になりたいの…」とか思ってしまうという、ちゃんとダメな女としての響子が描かれているのだ。だから五代もインポになってセックスさせてもらえないのである。これは立派なことで、物語自体の進め方はぶっきらぼうでコロコロ変わるくせに、感情についてはとても細やかに表現されている。八神のシーンもそうだし、桜並木を二人で物思いにふけりながら歩いていてお互いに迷子になり、「このままじゃ彼女を見失ってしまうって……」「よかった…いなくなってしまったかと思った……」となるというシーンが、感情をすごく細かく考えてていいなあと思った。ほか細かいシーンでもずっと描いてあるけど。

がーしかし、これで泣いて、迷って、うじうじしているだけだとつまらないのであるが、単なるカマトトになっていないところがこのマンガのいいところで、実際には響子というのはやたらと怒ってばっかりいるキャラクターなである。実はよく見るとらんま1/2のあかねなどと同じ系譜にある、高橋留美子のマンガにはよくあるツンデレなのである。アニメ版はそこが伝わって来にくくて、おしとやかすぎるようになっている。だから、「おれの好きなひとはね、こずえちゃん…やきもち焼きで、早とちりで泣いたり怒ったりだけど、そのひとが笑うと…おれは最高にしあわせなんだ…」という五代のセリフは、マンガだとすごくしっくりくるが、アニメの方だとどうなんだろう。

というわけで響子が最終的にセックスする前に「抱いてくださいって…私の方からお願いしなくちゃ、自信が持てないんですか」と言うというのは、男性視点で読むとカマトトとかツンデレが萌える人には非常にうれしいっぽいセリフに見えるが、しかしこれは響子の物語なのでうわー据え膳!とかいう意味では断じてない。主人公たる響子が、状況にまかせて天秤にかけずに、自分から「お願い」しなければいけないのだという、大事なシーンなのである。そこで一歩踏み出せたから響子は、セックスが終われば「ずっと前から五代さんのこと好きだったの」と普通に言えるようになるのである。

で、冒頭の話に戻るが、かように細かく響子を心理的に追い込んだため、「ボケキャラ」という設定はわりと遠くなり、プロポーズのシーンまで忘れられる結果になったのである。この作者は自分が忘れていたことをよく作中人物に「忘れていた」と言わせるので面白い。二階堂なんて、初登場のエピソードが数話あって、それが終わったらもういきなり出てこなくなり、数話後に出てきたら朱美に「生きてたんだ」とか言われるような存在なのである。最後の結婚式にもいない。本当にかわいそうな奴だ。そんなわけで心情は異常に細かく描写してるのに、話の流れは豪快というほどに大いにいい加減で、何だか面白いバランスのマンガだった。

 

 

読む男 #48

あああああああああああああああいちご1000%がおわっちゃおうおよう!!! つーか先週までみんなが修羅場だ切ない展開だとか言ってたのをハァ? あんなの何が面白いの? バカじゃないの? とかエラそうに言いながら見ていた青春評論家こと私だが、今週は卒業式だったんだがはかなげ楽しげな絵が描いてあって

そして また
みんなで会おう…!

とかそういうのが私にはクるわけですよ!! たいへん胸をしめつけられる切なさなのですよ!! あああああああああ高校生活が終わっちゃうよおおおおおおおおおおお!!!!!!!!! 「いでじゅう」の修学旅行シーンとかラストとかがなぜ俺に訴えかけてこないか考えなきゃ。あーでももう分かった。考えるの、やめ。

 

 

読む男 #47

ヤンマガのディープラブはかなり笑えるのだが最近になって突然「いや、絵描いてるTetsuってこしばてつやじゃん! 天然少女・萬!!」と気付いた。こしばっぽいな〜アシスタント出身? とか思ってた自分がバカに思えるほどこしばそのものじゃん! Yoshiに合わせて自分もTetsuかよ! 面白いよお前! この人って何でもやるよねホント。木多のマンガは第2回目にしてもう「ダメだ……」と思ってしまった。俺は面白いんだけど。エリートヤンキー三郎はずいぶん前からダメだったけど番長連合と話かぶってきてるよ。お互い全国制覇していって連載にして数年後ぐらいに頂上決戦すると大甲子園的だと思った。センゴクは面白かったんだけどゴチャゴチャしてきた。Y十Mも判りにくいような気がする。こっちに連れてくるべきじゃなかったんじゃないのかと心配になりそうだが要するに俺がバジリスクと同じノリを期待して、いいからさっさとお互い殺し合えよと思っているだけかも。新宿スワンは何となくキャリアのなさが出たように感じる。展開自体は普通だけどちょっと説得力が足りなく感じた。彼岸島いつまでやってるんだ。息がハァハァ曇ってばっかりで。湾岸ミッドナイトは面白いなあ。ちっとも分からないところが。ガタピシ車で行こうも結構前から別にクルマ関係ない話が多くなったよなあ。こういうふうにわりと平気でいろんなマンガをマンネリに移行させてずるずるやるのがヤンマガっぽいと俺は勝手に思っている。赤灯えれじいもある意味そうなんだけどこれは最後の展開によってはヤンマガ的青春感動作になりそうなムードが。あと克・亜樹とかハーレム女子寮のやつとかちっとも面白くないエロコメが載っているのもヤンマガっぽい。俺ヤンマガで一番好きなのって「しあわせ団地」かもしれないなあ。載ってないけど。

スピリッツはオメガがなんか浦沢直樹の絵に見えた。似てて当然なんだけど今週はなんかよけいそう見えたよ。ホムンクルス来週始まるらしいけどもう俺つまんないからあれいいよ。この人のマンガってストーリーをちゃんと進めてたの殺し屋イチだけだなあ。田中面白かった。オチがくだらなくて。オーバーレブの人の就活マンガとか官僚マンガとか朔ユキ蔵のやつとか編集部的要請に基づいたマンガが載っているのが俺にとってのスピリッツ。あーしまったホイチョイを読むのを忘れた。バンビーノ面白くてスピリッツの中ではかなり好き(でも今一番好きなのはウシジマくん)なんだけど小休止話になってまあこれはこれでアリなんだけど東京の仕事が再開したときにまた面白い展開が作れるのかどうかがこの作者が新人であることも含めてドキドキするなあ。なんか最初に描きたいと思ったことを描き終わっちゃってて燃え尽きてたらやだなあ。あとこれはアオリ文句がいい加減ウザい。あとさあゴーゴーヘブンとか「メディアミックスやりますよ」という気マンマンで持ってくるのがつまんないよなあスピリッツって。モーニングのいやらしいあざとい感じには及ばないなあ。だいたい花津ハナヨもそうだけど海埜ゆうことか俺の嫌いなタイプの作家なので読む気にならない。全然うまいと思わないなあ。

ジャンプは愛シールドがもうちょいページ使って大ゴマでやってくれたほうが俺好みの感動展開でよかったような気がする。キックのところとか。こうストップモーションぽく。あっけなすぎる。ダイナミックな絵の演出が少ないのでコレだと筋とセリフをサクサク読まされた印象が強くて感動話を見せたかったですというのが浮き出て見えちゃうなあ。そういう意味ではワンピースは面白いな。デスノート面白くないなあ。「三つどもえになったから」とかいうだけの理由じゃないと思うんだけど。あとネウロがすごく面白くなってきた。変なマンガだ。いちご120mはドロドロしてるなあ。辛気くさい女だなあ。富樫はぜひあのメクラの女を惨殺してほしい。ひどいよ。顔文字。

 

 

読む男 #46

土田世紀についての話があまりにも簡潔で自分的にイヤだったので時間もないけどちょっと書き足すと、この人のマンガを外野的に楽しめてしまう理由は、それが80年代前半以前の「濃いマンガ」「熱いマンガ」のパロディとして読めてしまうからだ。彼が見つけた表現のやり方が結果として「熱いマンガ」を模倣していく形になってしまったからそれはしかたないことだ。でも、それが大時代の先生がたと違ってあくまで模倣であることに土田世紀自身は気付いていて(いや気付いてないけど、やっぱり「結果として」表現に現れはじめただけかもしれないので、だとしたらスゴイことである)、いかにも模倣としてソレを描くことを行っている。分かりやすいのはギャグの描写で、ズコッて感じのズッコケかたとか、怒りを表す漫符、「ダハハ」などの笑いの表現などはいかにもパロディ的に、批評的に表現されており、読者に「熱い」空間から距離を置かせることを許している。だからこの人のギャグマンガは熱いのに乾いていてキレているという独特の面白さがあり、90年代の後半からはその手法からさらにズレていくことに焦点が置かれていたような気がする。「俺のマイボール」とか。でもこの人にとって幸福なのは、この人にちゃんとコアな読者が存在し、「夜回り先生」のような表現だけを待ってましたとばかりに喜ぶような人たちじゃない(はずだ)からである。だから普通の読者は「夜回り先生」を読んで外野的にあああああいいいいいいいいいい話だあああああとか言ってていいのであるが、作者自身がそこから脱却したいと思っているなら別なんだが、それは土田世紀本人に訊いてみないと分からない。

 

 

読む男 #45

シガテラが終わって木多の連載が!! ヤンマガの英断!! カラーページをムダに格闘技の名前を書きまくって終わりにし、あとはいつも通り! チンポとかそういう感じだったので笑った。面白いマンガだ。馬鹿すぎる。女子高生の性に異常に詳しい、しまぶーこと島袋先生などの怒られそうな話も相変わらずだ。でもヤンマガ連載陣て絡みにくそうだなあ。このまま少年誌ネタで続けるのかな。

夜回り先生は面白いなあ。土田世紀はたぶんそういう読み方をされると怒ると思うが、俺はこの人のマンガは、外野としてどうでもいい位置からいいいいやややあいい話だ感動する! とか言って平然とできるところが好きだ。自分の現実には全く関係ないのであって何の明日の糧にする必要もないというか。ああホラ昨日やってたじゃん見てないけど貧乏な大家族。あれに似てると思うよ。

ハヤテのごとくは単行本で読んだときは面白かったのに雑誌で読むと絵がヘタなのばかり気になるのはなぜなんだろう。あといでじゅうが来週最終回だって。このマンガって好きな人はすごく好きそうだなあ。こういうマンガはあ〜るとか奇面組とかと比べられるというか同一線上にあると思うんだけど、ほとんど作者と読者が共犯的に創作物に対して優しみに溢れすぎることで作中の甘えた空間が維持される点が現代のマンガらしい。そしてそこが俺の気に入らないところだ。

コンティニューの別冊でハチクロの人のインタビューを読む。なんか勝手にキャラクターを動かしているわりにはファンからの意見に配慮しすぎた結果としてのあの展開なのかと思って意外だったんだが、しかしこの作者は結局自分の決めたようにしかしないであろうという思いもまた強まったので、前書いた印象とは変わらないなあ。ほか、いろんな人がハチクロについてえせーみたいのを書いてたりファンロード的な用語集とかがついてるんだけどそれは退屈だった。なんかあんまりみんな物語がどうなってるかとか気にしないんだあれについて? つーかエバーのときにも同じ事を思ったのを今思いだした。物語の形式としてどうなのかって話は、みんな、好きじゃないんだよね何でだろ。ほか、エウレカセブンの姉に語りかけるのの元ネタは「HOTEL」ですか? と聞かれて、嘘でも「そうです!そうそう!それで!」と答えられない京田知己と佐藤大は面白くないひとだなあと思った。「むしろツイン・ピークスです」とか言っちゃってさあ何が「むしろ」(「どちらかというと」だったかもしれないが忘れたが)なんだかという感じだが、あのアニメはまさにそういうセンスをカッコいいと思うか否かで評価が変わると思う。つまり「むしろツイン・ピークスです」と言ってしまう彼らを「オシャレだわ」と思うか「うわだっせー」と思うか、または、「おい、ツイン・ピークスとかマジメに答えてるよ面白すぎるだろそれは」と思うか、なのだが、しかし、実はあのアニメを支えているのは、制作者が何を言っていようが全く気にしないか、もしくは元ネタなんか最初から知らない人たちなのだ。その人たちはアニメをアニメとして見ている、はずだ。なのか? それにしてもこの本だけどちょっとあんまりにもまとまりがないように見える。たぶん押井守のせいで。

 

 

読む男 #44

才能?あの子の…?
北島マヤの?あの子の才能ですって?
オーホホホホホ

北島マヤ…あの子は天才よ…!

ガラスの仮面はなぜ面白いかということについてずっといろいろ考えているのだがどうしてもうまく書けないでいるがガラスの仮面について考えるのは本当に難しい。しかも間違って消した。書いたのは簡単に言うと美内すずえは天才というのはキチガイのことであり、異常であり、畏怖すべき存在であるということを堂々と表現しているということだ。これが分かりながら自分もキチガイじみてるなんてたいした人である。まさに天才だと思う。ダメっ子であるマヤがまさに天才として舞台で振る舞っている間はホラー漫画家こと美内すずえの真骨頂であり、読者に与えられるインパクトは実は演技に対する「感動」だの技術に対する「感心」だのにすり替えられているが実は「恐怖」である。そこでは読者はマヤに感情移入できず、観客に同化させられる。で、努力の天才であり縦ロールであるすなわち読者の絶対的な憧れの人である亜弓さんがマヤを絶対的に誉めることで、すさまじいものすごいカタルシスが訪れる。というマンガである。だからダメっ子状態で読者と完全に一体化しているときに

いいこと! 途中でくじけたりしたら
わたし…あなたを許さなくてよ…!
もし棄権なんてマネをしたら
わたしあなたを軽蔑するわよ!
いいわね 2年よ!
あなたはきっとわたしと「紅天女」を競うのよ!
2年後にあなたがわたしの前から消えていたら わたし……
一生あなたを許さなくてよ…!

とかダメなマヤ=ダメな自分に言われると快楽がドバーという状態になってはわーとなってしまうのである。ここでは読者は亜弓さんのマヤに対する友情に感動している訳ではない。あのすごい素晴らしい亜弓さんがダメなマヤ=ダメな自分に対して愛情を傾けてくれているということに感動させられているのである。

で、以上のようなことがごく当たり前として繰り広げられるという手法によってまるでさりげないようにすり替えられていくのである。スゲエ。

というようなことがどうでもよくなるほど面白いマンガである。

ガラスの仮面に出るとしたらダレ役がいいよ? 亜弓さんっていうのが多いんじゃないかなあ。逆の意味で乙部のりえも意外と多そうだ。俺は小野寺先生役がいいなあ。椅子から「ずるっ」って落ちるの。

 

 

読む男 #43

そういえばマンガを読んだんだった。ハチクロで思いだした。二宮ひかるなら「ナイーヴ」の方が面白いと教えていただいたので読んだ。いまそれについて考えているところ。

 

 

読む男 #42

ばるぼらさんの本は飛び飛びに興味のあるところから読んでいる。だから一字一句すべては読めてないけどだいたいわかってきた。これはすごい本だ。よくこんなこと調べるなあ。とかいうのはもうだいたいみんな言っているが、ほんとすごい。

でも、ばるぼらさんがホントにすごいと思うのは、これは解説の大森さんが書いているが、調べられなかったことを頭だけで考えて書いたりしてないところだ。俺にとってこの本は90年代の前半によく俺も買ったような、愛情に溢れたいわゆる「サブカル本」の流れにあることは間違いなく、そしてその手法を用いながら彼の本当に好きなインターネットについて語るという点で新しいものだと思う。つまりインターネットについては、最初から自分の好きな見方で捉えており、その上であくまで感情的なものを排したログ掘りと歴史の流れに対する語りがあり、それゆえに検証主義的であるにもかかわらずかいま見えるインターネットに対する偏った愛情が感動を呼ぶ、という本だ。もちろん、資料としてだって素晴らしい、んだけど、そういう資料としてよくできてる具合も昔読んだ愛すべきサブカル本に似てると思った。

だから、この本に間違いを見つけても、それを指摘したらいいのかどうか困惑してしまうなあ。これだけの量の本だから間違いはあるんだけど、どっちみち俺が指摘できるのはレイアウト上の間違いとか誤字脱字ぐらいだけど、すっかり昔のサブカル本の感覚でこの本を読む俺にとっては、なんていうか誤字脱字すら愛すべきというか、なんか「そういうものだ」と思ってしまうんだよなあ。初版で読んでラッキーだったというか。あははは。

同じような話として、俺にはこの本の構成上の「読みにくさ」が感じられるけど、それも「そういうものだ」とか思ってしまう。「だからこそ素晴らしい」とはもちろん言えない。そういう言い方は嫌いだし間違ってる。でもこの本のそういう部分は乱暴なパワーの象徴なんだよなあ。俺にとってはね。でも、この本を嫌う人がいるとすればたぶんそこだと思う。歴史の本なのに整理されていない、精読しにくい、細かな部分が間違っている、などなど。

あとこの本には俺のこともちょろっと出てくるんで平気で自慢話をさせてもらうと、使っていたウェブサーバのIPアドレスが載っていたことと、Napsterについての記述に登場したことが一番うれしかった。前者はたしかウェブにあった年表にも載っていたが、自分にとってすら何の意味も持たなかったインターネット上の「俺の使ったそのもの」を指した記号が、そして今では誰かがまだ使っているであろうそれが、紙の上に残されたことに不思議な感慨を感じた。後者は、ネットでニュースサイトをやっていたときに、ツールの「アップデート」よりも「新奇さ」を重視したがっていたのを思いだした。毎日Windows版のHotlineクライアントが出そうなコミュニティをほうぼう見張っていたのを思いだした! 「変わったツールが出たみたいとか、そういうどうでもいい空気感を記録しておくと、あとで絶対誰かが過去を参照するときに『意外に便利だ』とか思うに違いない」と、俺はマジで思っていたのだ。だからホントにそうなって、すごくうれしい!

で、最後にばるぼらさんは「歴史は繰り返す」ということを言ってこの本を閉じた存在にしてるんだよね。これがスゲエ。インターネットは終わりだ! ということだ。そうやって書いていたのは、そういうことなのだ。ここまでは終わり、これから先は新たな歴史が紡がれますという終わりじゃないんだ。ということでこの本に殺されないように、この本が閉じさせたループを脱するインターネットが! または! この本が閉じさせたループを越える見立てを用意してインターネットを読み解き、ループを無効化する本が! 登場すれば、たぶん最高だし、この本の著者にだって、きっとうれしいことってないんじゃないかと思う! はっきり言ってメチャメチャ挑戦されているのである。

ということで、この本をぜひ買うべきだとかそういうことをここまで一切書けなかったので驚愕した。買おう! 教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書! いいから買えよお前。電車男より売れるがいいと思うよ! そしたら面白いのにねえ。

 

 

読む男 #41

ああそうかわかった。ブログに期待を込めて文章を書く人たち・本は、「発言者にとってのブログ」「芸術家とか文化人とか学術研究者にとってのブログ」という書き方をしないから、えーって思うのかもね。そういう自覚すら欠けてると、盲目的に自分たちのいる場所を「普通ですね」と語っているだけに見えるってことで、つーかブログを語ってもいないということで、それははたして本として楽しいのか? つーか「詩と批評」の「批評」になってるのか? とか思って、んで、たまたまヤンマガを見て、ヤンマガではそんなこととは全く関係なく、全く別のリアルがかなり戦略的に、スピード感を持って提示されていて、そっちの方になるほどな、と思ったんだ。ということが言いたかったんではないかと私は私を見て思った。

 

 

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