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読む男 #60

いやあそれ、結構面白いんじゃない? やりようによってはLast.fmより面白くて便利そうだ。日本だけでしか流行らないけど。問題になりそうなのは違法なファイル流通を前提としていること(昔はMP3だってそうだったけど音楽というのは業界的にデジタル化が図られたためかなんか知らないけどなし崩し的に認められることになった、なりつつある)と、タグがないこと(マンガミーヤみたいなマンガ専用ビューワというやつはプラグインが使える奴が多いんだからそのぐらいのことはどうとでもできそうだ)と、あとサーバをやる奴がいないことだろうな。でもできたら便利じゃん。自分が読んでるマンガと似たマンガのタイトルやそれを読んでる奴が分かるって。ブクログみたいなものは多いけど、外部にデータベースを手作業的に構築しなきゃいけないという虚しさと面倒くささは残るわけで、何だかなあという感じなんで、だったら自分がビュワーでみたものとか人の見たものが見れる方が面白そうだなあ。タグを手打ちするのがめんどいという向きもあろうがそんなものはSuperTagEditorみたいので複数ファイルに一括して「ロリペド」とか「ジャンプ」とか打てるわけですよ世が世なら。パソコンでマンガ読んでる人自体が少ないという問題もありそうだけど、こんなものは狭い層のみんなが使ってればいいだけのもんの気がする。まー、ないんだけどね。そういうもの。ここまで書いたこと、全部。「そうだったら俺が楽しい」というだけで。

 

 

読む男 #59

最近面白いマンガがないなあ。Last.fmみたいに俺がマンガミーヤで読んだファイルがウェブに配信されるようなものが半ば強制的に付けられたりするとすごくイヤだと思った。ていうかあなたそれハッカーですよハッカー!

 

 

読む男 #58

西島君の詩と批評とあと何かの本であるところの土曜日の実験室が11月17日に出るらしい。Amazonにリンクしようと思ったら検索にひっかかからないのでお前はここから予約しろよ。つーか、目次を見たらめちゃくちゃ面白そうだ。こないだ西島君に会ったときちょうどディエンビエンフーが出たときで、俺は西島君に「今まで西島君の描いたマンガで一番面白い!」と言ったのだが、土曜日の実験室は目次だけで面白いのでよっぽど面白そうだ。早く読みたい。しかしディエンビエンフーは本当に面白い。あんなベトナム戦争をあんな戦闘シーンで描くというのは天才だと思う。もっかい精読したい。でも完結してないのでみんなニュータイプ編集部とかに「ンククってゆってる女の子はそのごどうなったのですか? つづきが気になるので出してください」などの純真な小学生っぽいハガキを送りつけるとよいと思う。

 

 

読む男 #57

忙しい。「ボーイズ・オン・ザ・ラン」ってスピリッツ丸出しだなあ。この人「ルサンチマン」も後半突然いかにもスピリッツの青春マンガ的な夢みたいな話になったんで戸惑ったんだよなあ。セックスできた後ぐらいから射精後の呆けたような感情が話を停滞させ、最後は主人公の恋愛を成り立たせることを阻止しようとする勢力の反乱と崩壊などの極端に作品世界全体を巻き込む騒動が起きて終結するって感じで。あのマンガはスピリッツがいつも提供する恋愛観から出発していないので面白かったんだけど、途中からちゃんとスピリッツになった。なんだか教育的な意図を感じるほどだった。スピリッツはほんとにこういうのが多い。ほんとに昔から多い。最近の例で覚えているのだと古屋兎丸のやつだってそうだった。

ボーイズ・オン・ザ・ランはもっと最初からスピリッツぽい感じ。いろんなパターンの違いはあって面白く読めるんだけど、やっぱり中身はスピリッツであり「たくなび」や「もふ」みたいなクソ面白くないスピリッツ的マンガと一緒だ。作者は煩悶した結果こういうスピリッツ的なモノを描かざるを得なくなったのだとしたら、なんだかなあと思う。なんかもうちょっといろいろ考えたいけど忙しくて考えられない。

ヤンマガはもう全然面白くなくなった。

 

 

読む男 #57

今面白いと思うのはサンデーとスピリッツ。理由を書こうと思ったけど忙しいのでやめた。

 

 

読む男 #56

書こうと思ったことを書き忘れていたのだが「ひぐらしのなく頃に」の「解」は結局のところ物語自体が物語外部を認識し、「オリジナル」「パクリ」などの批評的視座すら求めることが可能になってしまうような、いわゆる「メタ」的なものだった。このような手法はもちろん主にギャルゲーなどにおいて6〜7年前から存在した(ついでに言うと文学の世界では15年ほど前に流行ったし、今のライトノベルにおける叙述トリックも同列に語ることができる)が、しかし、俺が驚いたのはこの「解」に対して既に「ありがちだ」「拍子抜け」「そのパターンか」などの感想がわりと目立ち、作者ですらあんまり面白くなくてごめんねみたいなことを言えてしまう時代なのだなあということである。物語の物語性というものが行き着く果てにある「メタ的な物語」までもが「ありがち」なものとして捉えられる現在においては、「オリジナル」が成立することはまさに不可能なんで、やっぱりパクリパクリと叫ぶのもどうかって早く気付いてほしいところであるが、しかし「パクリ」がこれだけさかんに叫ばれるというのは、ユーザーの目も逆の意味で「オリジナルが成り立たない」状況を把握しているからこそなわけだな。彼らからすれば「私たちは真のオリジナルを求めているのにどうしてもパクリばかりが目に付く」と感じなのだろうか。だから、作り手もメタ的な視点を意識した上で「思いも寄らない展開」を作るという、もはや化かし合い以外みたいな状態が生まれ、物語性が過度に否定されたり、大時代的な(「豊穣な」などと称されるような)物語の手法をいかにうまく紛れ込ませるかということが大事にされてくる。と、ジャンプとかを読むとよく思う。読者を飽きさせずに「この続きが気になる」と思わせることが難しくなってしまったんだなあ。物語性に対する一般読者の視点がここまで突き詰められてしまったのはたぶん日本だけだと思うんだけど、韓国とかももうすぐなるのかな?

 

 

読む男 #55

魚喃キリコがHanakoでやってる「るきさん」のオマージュ(便利な言葉だ)マンガがなぜダメかという話を書いたけど消した。

なんだかすごく面白い雑誌を読む夢を見た。あれは何だったんだろう。

たまに活字で書いてある夢を見る。

 

 

読む男 #54

納得がいかないので「ラフ」を読む。いいじゃんこっちの方が全然面白いよ。この人でかすぎる話はやんない方がいいんじゃんやっぱ。誠実さというか人の良さはあるんだから無理するともったいなく感じる。

つーかこれいい話だよ!! 緒方!! 緒方が!!!!!!!!111

あだちテクがいい意味で炸裂してて非常にいいんじゃないでしょうか。

 

 

読む男 #53

思うところあって「タッチ」を読んだが、俺はあだち充って別に嫌いじゃないしどちらかというと好きだが、しかし読後感は釈然としなかった。和也が死ぬところまではわりとよくできてた。でもそれ以降は作者が狂ったのかイヤになったのかヘタレなのか、話を作ることを放棄している。何か言いたいことがあったんだろうけど、口ベタすぎる。それを言うために用意された小道具の数々が醜悪すぎる。このマンガは「Aという言動をしたら、こいつはBと思ってるって意味だよね」という後々のあだち充マンガの基本パターンを作り上げたものだと(たぶん)思うけど、だが、そのもって回り方というのを偏執的なまでに至る所に配した結果は、ただ鼻につく物語が一本できるだけだ。原田が突然場面に割って入ってきて、超然としたことを言わせて、あいつはいくつなんだ、みたいなツッコミがほかのキャラから入って、なんてただヘタなだけじゃないか。しかもそのツッコミが入るようなヘタなセリフ回しが何度も何度も行われるのである。ヤクザの監督代行とかも、幼なじみ3人のストーリーとはズレてしまって、ただ何となく緊張感のあるサイドストーリーにしかなっていない。主人公の双子と対比させるために出てきた挿話なんだろうけど、キャラクターを配したのにうまく動かなくて、それにかまけている間にメインのストーリーからどんどん遠ざかっている。この物語の主題になっている部分を作者は捉えているはずなのに、それを回避するのがクセになってしまったあげくによけいな要素ばかりを増やしたという感じ。作者が登場人物と一緒になってカッコつけてりゃ世話はない。いい気になって達也にベンチで監督にカッコつけたことを言わせている場合じゃないのである。新田に勝つ試合とかもさあ、最後の1球で和也を感じたりしてさ、延々問題にしてた弟のためじゃない自分の野球というモノとか、乗り越えるとかそういうカタルシスとか、一切至っていないのね。ただ何となく甘ーく解決しているだけで。最初から生じている問題を解決できなくてダラダラダラダラと十数巻を費やし、突然まとめるために登場人物が「いいセリフ」とかをバンバン連発して終わっていく感じ、だけならまだいいのだが、新田に勝ってからも無意味なシーンがガンガン挿入されたりして全く無駄。最後に甲子園で優勝したという描写がわざわざ挿入される、作品全体と読者に対する甘やかし方も無駄。

結局作者は臆病な人なんだと思う。最初に提供される世界は典型的なエロゲ空間で、主人公はみんなからダメだと思われているけど幼なじみと後で死ぬ予定の双子の弟だけが才能があると思ってくれている(そして実際才能はある)という感じであまりにも典型的なわけだが、しかし典型的だからつまらないなんて俺は言わないし、また、この甘やかされた空間の先駆であるのはもちろんエロゲではなくタッチの方であって、つまり多くの人が気付いていると思いたいが、現在のエロゲにおけるダメな世界観というのは80年代に爆発的な人気を博したダメな恋愛劇マンガなどと共通のものであり、彼らが好む疑似恋愛をよく理解する上でのサンプルとしてはうってつけだとは思う。しかし、エロゲというものは後に作品空間に対してすら批評的に振る舞うことでそこから脱したのかもしれない。

結局は南も達也も超人でありスーパースターなのだが、彼らはどこまでも甘えたままで大事なことを先送りしながら「悩み」を乗り越えていける。南の悩みなんてほとんど隠蔽されていて何が何だかよく分からないほどだ。南はしっかり者と言われるけど本当は云々というエピソードも、最終的には達也がダメでも南は大丈夫、という話に帰結して、て、数話費やして盛り上げた内容をわざわざダメにする。一体何がそんなに恥ずかしいんだ? 南は作者が恥ずかしがってるせいで自我を持たせてもらえてないのとまあ一緒であってかわいそうなものである。ともあれ、タッチはアニメの方が原作を消化した上で、作品として分かりやすくするためか、(同じ路線の延長線上ではあるものの)ハッキリとしたメッセージの提示がされている分原作に漂っている気持ち悪さや釈然としない部分がないし、いいデキだろうと思った。見直したわけじゃないからわからないけど。映画のやつとかも南に「ずっと三人でいたい」みたいなことを言わせたりしているのはこのマンガが抱えている構造を理解した上で暴いているわけで、非常にいいと思う。マンガの方だと和也ははっきり言って独り相撲であり、無駄死にである。ということで現代に生きる俺にとってこの原作が素晴らしいのは、庭で3人がお互いにお互いをどう好いているかというのが、誰も口に出して言わないのに明らかになる、というシチュエーションを見事に成り立たせたところまでであり、そこまでだ。「あくまで記憶に頼ると、たぶん自分には『ラフ』の方がよくできてて面白く感じるだろうな」とちょっと思った。

 

 

読む男 #52

今月のBUBKAはちょっと面白そうだなあ。最近買ってなかったけどハロプロもジャニーズも少しずつ薄めていった結果昔に戻るかと思いきや微妙に違う路線になったという感じで(勝手な思いこみだけど)、結果的に面白そうになってるので、いいな。あーでもモノクロ記事がメインになってるかのような地味さを感じる人もいそうかなあ。いるのかな。だけど俺はこういうのの方が好きだ。

 

 

読む男 #51

あーわかった。なんか引っかかるものを感じていたのだ。きっかけはやはりデミせんせいの文章なのだが、それにしてもこの文章は本当にいいなあと思うんんだが、それはともかく、この文章では、今の「サブカル」の人たちがオタクを差別したシティボーイ的な(中森文化通信な)人たちに直結しているような印象を受けたんだ。直結しているとすると、そこにやっぱり「敵」は存在しているってことになる。すなわち、今のオタクが持っている、オタク第一世代が後の世代にたたき込んで継承させたサブカルに対する敵視(前島さんの文章では「『オタク学入門』で僕たちの敵だと教えられたサブカルチャー」とある)は、対立関係として有効だってことになるんだよね。

でも、「敵」が存在するとすれば、いろいろおかしい点がある。まず、俺が最初にこのサイトで「最近のオタクの人のサブカルに対するものすごい拒否反応」と書いたように、この話を最初に(ネットで)振られた「サブカル」の人たちは、全然ピンと来てなかったんだ。せいぜい、「売られたケンカは買わねばなるまい」というような態度しか取ってなかった。でもさーオタクの側からすれば、先にケンカを売ったのは(差別をしたのは)サブカルの側なんだし、デミせんせいの文章を読めば分かるように、それは実際その通りなんだ。だったら、本当に対立関係が成り立つはずじゃん。なのに、この本が全体として述べているように、そうはならない。「差別ゲーム」ぐらいしか演じられないんだ。

それで、デミせんせいの文章を読みながら俺は自分のことを考えた。デミせんせいはここで女子の話をしているのは、デミせんせいがまさに女子だからだし、あの頃だって女子だったのだ。だが、俺は男子だし、あの頃だって男子だったのだ。だから俺にも何かデミせんせいが書かなかったことが分かるはずだと思った。それで、俺はようやく、自分が前に書いたことを思い出した。俺は、前にサブカルの話を書いたときにそのへんの人たちと渋谷系以降をしきりに分離したがってたのだ。で、なぜ分離したかったのかつらつら考えているうちに思い当たった。

俺は92年に、友達と作ったミニコミ誌の中で、ヘアカット100とかを例に出しながら「女子は『異性から見てかわいい』という価値観に加え、『同性から見てかわいい』という価値観、さらに『同性から見てカッコいい』という価値観まで身につけてしまった。それなのに男子はいつまでも同じ『カッコいい』というものしか持ちたがらない。だから、この先は、男子にとって、『かわいい』と言えるということはとても大事になるはずだ」とかいうような話を書いた。当時の俺でもそんなことを言えるんだから、そういう考え方はきっともうすぐそこまで来ていたのだ。案の定、94年には「フェミ男」なんていうものが流行ったり、ユニセックスの服が売れたりする。

それは男性の女性化だと言われた。有り体に言えばその通りなのだが、しかしデミせんせいの文章に合わせて言えば、あれは女性性の回復だって言えるんじゃないかな。俺がそれまでの左翼運動の残滓が見られるサブカルと、90年代のサブカルを分離したがった意図はそこにあったのだ。オタクが「萌え」によって女性性を回復したのに先だって、90年代のサブカルは「かわいい」をアリにしたのだ。フェミ男なんてのは一過性のブームだが、文系少年の中にかわいいという価値観は戻った。今オタクが「サブカルはモテようとして云々」と言っても、何のことか分からないのはそのせいだ。つまり、今のオタクがオタキングの定義からズレているように、今のサブカルだって、中森文化通信な奴らじゃないのだ。オタクが見ている敵はもう(少なくとも同世代には)いないのである。

俺が前にオタクとサブカルの話を書こうとしたときに、最初に書いた「今のオタクと今のサブカルの対立を、かつてのオタクとかつてのサブカルの対立の主役だった人たちが、自分たちの経験にのっとって論じるのは、間違いじゃないけど実は全然現状に即していない」というのはそれだったのだ。何のことはない、そこにあった対立というのは、オタク第一世代と新人類諸君にとって大事だったのかどうか知らないような争いを保持し、そしてこんなようなくだらない気持ち悪い価値観を、好むと好まざるとに関わらず、自分たちにとって欠かすべきでないものだとして次世代以降に継承させようとしているだけなのだ。でも、「90年代ポップカルチャー」に触れたコドモたちは、オタクもサブカルも、そんな争いとは無関係にメディアを享受していたはずだ。我々が、共に楽しんだメディアであるゲームにおいて融和しており、かつてのオタク像がそこに通用しないのはそのためだ。屋根裏さんが自分の興味のワクを広げていくうちになぜか「いわゆるオタク的」なものに到達してしまうことがあるのだって、きっとそのせいだろう。それから、たとえ「オタクはキモい」という価値観があっても、サブカルの人たちはエンガチョされたオタクに「再び」接近するために、急速にその価値観自体をバラし、「アリ」にしていったんではないか。

考えてみれば「萌え」でイビツながらも女性性を回復したオタクというのも、旧世代のオタクからすれば違和感のあるものなのかもしれない。既に最初に「萌え」が持っていた意味とも違う、女性蔑視的な価値観を持たず純粋に女性性を楽しむことを「萌え」と呼び、従来のオタク的ルールを越えていくような新しいオタク達(そのへんの話は前島さんの文章に出てきていた)は、見ていて大変気持ちがいいので、何かサブカルと対立しろとかどうでもいいようなことを言う人のことは無視して、もしくは全く興味を持たずに、あと俺が下の文章で「腐女子」にだって違う動きがあるはずだと書いたのは、例えばエロゲーを男女共に楽しむようなオタク像をこの本はあまり積極的には認めていないからなのだが、そういう女子とも(男女で享受のしかたが違うのは当たり前だが)一緒に、自分たちの好きな対象を楽しんでたらいいなあと思う。今「オタク」だ「サブカル」だと言い合ってる人たちだって、90年代には好き勝手にそうしてたんだから。

あーすっきりした。本を読むというのは実にいいことだ。

 

 

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