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読む男 #68

今ちらっと読んで思ったけど、これって、一般的なジャンプマンガでは「友情・努力」が「力」を生み、「勝利」の「理由」になるのに対し、キン肉マンでは「友情」自体が「力」となって「勝利」の「理由」になってしまっているってことだよね。「友情」と「勝利」が奇妙な形で連結されてしまっているのだ。潜在的には常に友情や努力はどうでもよく、もちろん力こそが大切なのだってことだろう。批評性を得ているとか言うんだったらそういう書き方だってできたはずなのに。バカだなあ。

 

 

読む男 #67

掲示板でキン肉マンについて書いてみてはという投稿をいただいたので、がんばって書いてみようかと思ったがしかし、場合によってはキン肉マンについて書くことの困難さについて書くことになるかもしれないんであるが、なんでかっていうと、このマンガはとても単純で、だからこそ端的に語ってしまうと何か違う意味になってしまうような気がする。から。

キン肉マンには2つの前提があって、まず、これは本当は当たり前のことなんだが、「この物語においてキン肉スグルが勝つことにさしたる理由はない」。で、次に、この前提を踏まえて成り立つもう1つの前提が、「この物語は同じ事をずっと繰り返しているだけである」ということだ。

2つ目の方から話を始めると、この物語世界は、ある時期からは常に一定の強度で一定のことをやるだけになり、以後は全く変化しなくなる。それは、どこにも至らない。どんなに変調や進歩のようなものを見せても、それはせいぜい以前との、とりわけ直前との差異としてしか認識できないようなものである。物語の連続性が、単に時間の連続としてしか存在していない。だからこの物語が、よく言われるように、全体を通して見ると設定がてんで矛盾だらけになっているのは当たり前なのである。時間は綿綿と連なっているのにモノゴトの持続性が希薄、という変な状態になっているわけである。そして、それなのに、というのが驚きなのであるが、これは「成長物語」としてあるのである。

だからといって、この物語をデタラメに書かれたモノとして笑いものにするのは間違っている。なぜなら、この物語は形を変えつつ同じ事をずっと繰り返しているだけなのだから、全体を通した時間の経過によってどんな変化があるかなんてことには意味がないのである。ゆでたまごはそのことを理解している。そう考えれば、ほぼすべてに合点がいく。そんな読み方があってたまるかという感じだが、俺はそう思った。ちなみに「ある時期からは常に一定の強度で一定のことをやる」と書いたが、その「ある時期」は、原型としては2巻の「プロレス大作戦」の回で見られる。この話で始めてキン肉マンはレスリングを行い、同時に「友情パワー」の原型もここで見られる。見られるけど、ゆではバカなのでちゃんと描けていない。取りあえずテリーマンに「キン肉マンカムバーック!!」と言わせて、なんだかわからんがキン肉マンが燃えて、バックドロップして、ナツ子が「やっぱ女はダメやわ…」と言って、勝つ、という話である。ここには何の説明もない。「キン肉スグルが勝つことには何の理由もない」という前提が色濃く出ている。これがこの物語の原型である。

で、そのあとは、大きく分けて「超人オリンピック編」「アメリカ編」「超人オリンピック(2)編」「7人の悪魔超人編」「黄金のマスク編」「夢の超人タッグ編」「キン肉星王位争奪編」の7パートに分かれているんだが、それぞれは独立した物語を持ち、登場人物が引き継がれ、また増えていくにもかかわらず、どれもやっていること自体は変わらない。すなわち、「キン肉スグルがさしたる理由もなく勝利する」までの道のりが描かれる。作者が本当の意味で周到に意外な展開を用意することは全くないし、モンゴルマンはさんざん引っ張るけどどうせラーメンマンだし、展開と呼べるようなものがないんであるから、最終局面と呼べるものも訪れない。それだからこそ、最終話では「長かった戦いよさらば!」という、「そこから降りる」セリフが叫ばれるだけで、いきなりすべてが終結する。このセリフの「戦い」が、フェニックスとの試合とか王位争奪編とかではなく、「キン肉マン」というマンガそのものを指しているのだというのは想像に難くないわけだけど、しかし、キン肉スグルにとって(作者にとって)、このろくに理由もなくずっと繰り返される「戦い」は実に実に長かったのであり、だからこそ、そこからイチ抜けするこのセリフには物語全編を通して最大の爽快感が感じられるのである。ちゃんと時間が動き続けながらパワーがインフレしていき、最終回でついに作品としてそれを追い続けることが放棄される「ドラゴンボール」とは対照的である。ドラゴンボールの最終回は別に読んで爽快ではない。ブツッと切れるだけである。ドラゴンボールは際限なく「限界を超える」マンガであったが、キン肉マンはそうじゃなく、常に同じモノを示し続けている。

むろん、ゆではキン肉スグルが勝つことに理由がない、ということにハッキリ気付いて、つーか絶対ほかの人に指摘されたんだと思うが、これではいかんということでムリヤリ「理由」を与えようとし始める。それが完全に形を持って現れるのは、「超人オリンピック(2)編」からだと思う。「コンピューターに勝つ方法はただひとつ、コンピューターを始動させないこと。それができるのはきさまの火事場のクソ力だけだ!」とか、書くのもバカらしいような「理屈」が登場する。そして、この前後からこの物語は「○○ということは××ということだ!」などという説明めいた(そして何の説明にもなっていない)セリフが頻出するようになる。「マスクをとって素顔をさらしたら死ぬ」とか。「マットの上にあるベアークローにたたきつけたらキン肉マンの勝ち」とか、「8を横にしたら∞だから」とか、いくらでもある。それまでのあまりに行き当たりばったりな、取りあえず技を出すとだいたい何かが決するマンガではなく、その前に「○○したら××になる」という説明が加わってから「それが起こるかどうか」「起きたけど、どうなるか」ということばかりが描かれるようになる。だから、遠くで仲間が破れるたびに例外なくテリーマンのブーツのヒモは切れるのである。ここは「なんでそんなに切れるんだ」と突っ込むところではなく、ゆでの異常なまでの律儀さに感心すべきところなのである。

キン肉マンについて書くのがめんどくさいというのはこのへんである。このマンガの全部が、ゆでの偏執的な、そして狂った「法則」によって成り立つのだということを例示していくのが、このマンガを理解する近道であって、そういう意味ではこのマンガは非常に分かりやすい。でも俺は別にキン肉マンだのマンガだのを研究して生きているわけではないので、そこまでするのは大いにめんどくさいっつーかどうでもいい。まあ、ともかく、このマンガは決してデタラメに作られてるわけではなくて、ゆでのオレ宇宙法則に基づいて書かれているのである。まあ、そんな法則自体がデタラメだって言えばそうなんだけど。しかし、このあたりからキン肉マンは急激に面白くなっていくんだけどさあ、でも「理屈つけるのっていい」と思ったゆでは、何に対しても執拗に理屈をコネ始めるんだよね。もう何お前今度はそれが止まらなくないのかよというぐらい書いている。

もっとも、ゆでが「友情パワー」というお題目に到達するのは(なぜか)もう少し先でさ、ミートの身体を取り戻すために協力するアイドル超人達についても、サッサと「友情のために」とか口走ればいいのに「何の得にもならん勝負に命をかける超人バカが……!!」とか、友情ではない別の何かについてカッコいいかのように書かれている。ゆで、ぜんぜん分かってない。全然分かってないというのはようするに、ゆではもちろん友情「こそ」が大事だとなんか思っていなかったということだ。友情が大事なら「何の得にもならん」なんて書くわけないじゃん。それをわざわざこいつが書いているということによって、このマンガにおいてあたかもテーマのようにさんざん語られる「友情」には全く中身などないということが露呈している。つーか話違うけど最終話の最後のセリフが何の断りもなくジョージ・ワシントンの引用だというのもすごいよな。それはともかく、キン肉マンとはこうして80年代ジャンプ的な「友情・努力・勝利」マンガの最高峰でありながら、同時にその黄金パターンを、作者自身が、しかも全く意図しないままにブチ壊しているという、すさまじい物語である。冗談でもなんでもないわけで、「友情」は作品的に極めて大事なモノでありながら、その理由は、実はキン肉スグルを勝たせる万能の呪文だからなんだよね。つーか「友情パワー」というのはそもそもの始まりからおかしい。こいつを唱えだしたのはバッファローマンなんだが、それは「超人強度(超人パワー)」を上回る「気力」を支えるモノだとか言ってるわけだ。ようするに「強さ」の話を途中でムリヤリすり替えてるんだよね。それはともかくとしてここで注目したいのはゆでは物語の「理由」を外部的な力に求めているということだ。ドラゴンボールにおけるスーパーサイヤ人と比較すれば分かりやすいが、それまでのパワーの基準に沿ったまま能力を飛躍的に高めるのではなく、ゆでは別の概念を持ち出すことによってウヤムヤに凌駕させるのである。そもそも「勝つことに理由がない」のだから、なんだかよくわからない上位の概念を持ち出す以外にどうしようもないんだけど。キン肉スグルのピンチを救えるのはカメハメやアタルなど、死んだ存在だけなのもそのせいだ。実に迷える子羊チックというか宗教的である。このマンガは全部そうで、ゆでが認識可能な世界の外側に救いを求めたがって宇宙法則を見いだしてオレ曼荼羅を描いてという熊楠だ。いやこれは実に宗教的なマンガ作法であり、ゆでは超越的に存在する外部に根拠を求めているのであるがこれは別に創価学会がどうのとか揶揄したいわけではない。

で、まあそのへんで「キン肉マン」とは、「リングの上で、友情を合い言葉にしながら、何でもいいから取りあえず理屈をつけてあれば、」「キン肉スグルが敵に勝ち続ける」マンガになったのである。これが、冒頭にあげた前提を用いてゆでが作り上げたキン肉マンという宗教的な世界である。結局勝つこと自体には何の理由もないのであるが、細かなエピソードが、キン肉スグルが勝つ理由として機能する。しかもよく見るとそれは全然意味をなしていない。「火事場のクソ力」などはその典型である。そして、このマンガのファンとは、たぶんそういった細かなエピソードがすごく好きな人のはずだ。なぜなら、これはとってもプロレス的だと俺は思うからだ。戦いにおける細部のエピソードによって、それが熱く語られることによって、このマンガは支えられているのである。というわけで、友情というのは大事なときにかかげておけばウォーズマンの顔面を粉砕しても構わないし、または、試合のシーン以外では彼らがお互いにお前それ全然友達じゃないよという言動を交わして、友情を築いているようには全然見えなくても別に構わないのである。あとヨロイだのマントだのを血で染めたりとか野蛮げなことをやってもいいのである。友情あるから。

でも、この友情話が通用する間は非常に短く、それは黄金のマスク編までである。黄金のマスク編は友情パワー話の頂点にありとてもバランスがいいが、夢の超人タッグ編ではもうほころび始めている。この話はいかにもわざとらしく友情パワーの崩壊を描いているんだけど、そういうエピソードを描く時点でその概念がすでにデキあがっているというのはあきらかで、で、まあそれはいいんだけど、特に気になったのは「悪の友情パワー」とかいう変な言葉がちらっと出てくるからである。どこだかは忘れた。王位争奪編かも。でもまあここで、「友情を持っているからこそ正義であり、だからこそ正義超人であり、それには力があり、勝利する」という、マンガを支えていた「勝つ理由」は揺らいでしまう。作品を通して悪の象徴であったアシュラマンがどんどんおかしなキャラクターになり、言っていることがコロコロ変わるようになる。母親が、息子が正義超人に荷担するのは怒り故だと説明するのも、いかにも言い訳じみている。そして王位争奪編で「真・友情パワー」とかいうものが登場するに至って、「キン肉マン」を支えていた理屈は完全に崩壊するんである。キン肉スグルが勝つ理由として提示された「友情パワー」という「根拠になっていない根拠」は、さらに別の無根拠によって否定されてしまうのだ。「友情があるなら蹴落とすことも大事」みたいなとってつけたような説明があるけど、そんなのはほんとにとってつけたようなものであって、実際には友情パワーを凌駕する概念であればそれでいいわけだ。でも、ここが困ったところで、ドラゴンボール型のパワーインフレを選んでいないこの物語には、もうこの先はないのだ。だから、それを唱えたキン肉アタルは勝手に死んでしまい、彼と「真・友情パワー」は、正義超人に内在するものとして描かれていた「友情パワー」とは違い、永遠に届かない存在としてはっきり区別されてしまう。コレは何かというと、ようするにキン肉マンというマンガは、さらなる変化を求めるわけではなく常に「届かないアレ」への邁進を繰り返すため、閉じてしまっているわけである。「そうか日本では古来より悪霊よけには清めの塩が使われていたんだ!!」みたいな説明を入れつつスグルが勝つ物語として開き直っているわけである。この話の構造がどうなっていたとしても、読者は別にそういうものを望んでいたのではないことは明白である。みんな別にそういう閉じたマンガを待っていたわけではないので、そっち向きに開き直られても困るし、閉じた中でゆでが腕によりをかけて理屈に凝れば凝るほどそれがデタラメだということばかりが目に付くんだから、ファミコンとかディフェンドスーツとか折り紙とか、「面白いでしょ」って感じで持ってこなくていいのである。でもゆではそんなことわかってないけどね。だからこのマンガはここで終わる。

つーか、こんな読み方でキン肉マンを読んでもたぶん楽しくはないので、やめたほうがいいと思う。プロレスが楽しめる人なら、たぶんキン肉マンも楽しめると思う。というのはこれがレスリングで戦うマンガだから、という意味じゃなくて(第一、ここまで書いたことを踏まえれば、このマンガは「レスリングで戦うマンガ」なんかじゃない)、さっきも書いたような気がするけど、最初にあげた2つの前提というのがつまりプロレス的なんであって、このマンガ自体がプロレス的だということかもしれない。

あと、この時代のマンガがキン肉マンと同じく、今よりもストーリーの組み立てにおいて稚拙だったわけではない。ゆでは明らかに、この時代の作家がさらっと描けていたようなことがうまくは描けない標準レベル以下の語り手であるが、すごく努力家で、試行錯誤によるものなのか編集部の入れ知恵なのかは分からないが、だんだんうまくなってくる。だが、そのうまくなり方というのが尋常でない方向を向いていたために、ゆでとしか言いようがない驚異的な芸風をハナ開かせている。しかし80年代の少年マンガにおいて、「主人公が理由なく勝つ」のは当然なわけで、つーか理由などないという意味では今でもそうだが、あらゆる物語は究極的には枝葉の違いだけになるはずだ。このマンガは間違ったやり方でそれに取り込んだせいで、ほかの物語に対するそういった批評性すら獲得しているように読めて俺にはとても面白い。

 

 

読む男 #66

キン肉マンを読んでいるがメチャメチャ面白い。これ面白い。これを描いた奴はアタマがおかしいというホメ言葉が俺の中にはあるが、しかし、これは描いた奴のアタマがおかしい、というようなマンガではない。そうではなくって、小学校のクラスの人気者が描いてくれたマンガのような感じだ。「ゆで!俺の作った超人も出してくれよ!」「OK!」的なノリだ。もはや筋とかキャラクターのどこが矛盾してるとかそういう問題ではない。前のコマと次のコマだけで整合性が取れていない。ひどい。すごい。昔はこんなマンガでもよかったのだ、という言い方は俺はしないけど、しかし、これをとんでもモンドなマンガとして読むこともしない。クラスのマンガのうまい人気者が描いてくれたマンガとして興奮しながら読むのが正しいと思う。まだ15巻までしか読んでないけど、このマンガがどのへんの時代から人気を失っていくかというのはわりと重要な問題のような気がした。それはともかく、ゆではあいつほら中身がクラスの人気者小学生だから最初ほとんど意識しないで僕の考えたヒーローが戦うマンガをひたすら描いてるだけなんだけどさあ担当編集者(鳥嶋がどっかに出てた)の意図っぽく友情・努力・勝利が入ってくるわけですよジャンプ的手法は実はキン肉マンで確立したんですよ(談)と言われたら私信じますよ。小学生が描いたマンガにさあ話が進んでいくに連れてスキマスキマにだんだんジャンプ三原則が挿入されていき、人気マンガとしての「キン肉マン」が形成されていく様は大変スリリングで面白い。あの友情がうんたらゆうナレーション的文章なんて絶対ゆで書いてないよあんなの書けないと思う。でもゆでをバカにしちゃダメだよあいつちゃんと絵がうまくなっていくんだぜ。構図とかに凝ってみたりして。

あと、ドラゴンボールも並行して読んでみた。こっちはもっとずっと分かりやすい。去年読んだ気がするが、そのときはとても感動したのだが、今回は作品世界の繰り返しの構造ばかりに目がいって、ちっとも面白く読めなかった。ドラゴンボールは今一番批評しやすいマンガだなあと思った。鳥山明は、このマンガの筋やキャラクターを、自分の気分だけを大事にして、とてもいい加減に作ったから、このマンガは鳥山明の手癖やそのときの気分が色濃く出て、時代的感性のとてもこもった、後から読み返して興味深い、価値ある、モノになったと思う。キャラクターの「強さ」や物語のケレン味が、すごく「当時」っぽい。あの強さのインフレがいかに繰り返されて、そしてそのシステムがどう崩壊していくかというのを具体的にコマをキャプチャしながら資料にしようかと思ったが、別にそんなことしてもトクしないので、やめた。

 

 

読む男 #65

サンデー休載ばっかりじゃん何あれ。ジャンプはハンターハンターの話をまんまと忘れてきた。マガジンはそれにしても全く面白くないな。そういえば俺はスクールランブルって面白いと思わない。俺の読み方だとぱにぽにと同じモノということになる。ついでに言うと一語増し麻呂も面白いと思わない。

ハヤテのごとく!はツンデレ描写が大変上手だと思うけど、「あっちゃーオタクネタやっちゃいましたよーこんなこと書いちゃいけませんよね〜」と恥知らずな調子でキャッキャ言っているかのような伏せ字の○がうんざりする。こういうモノは今はもう遅れ始めてると思いたい。久米田も全く面白いと思わなくなっていたので、かいぞうが終わったときに他人が騒いでいるのが不思議だった。しかし太臓もて王サーガはなぜか許せるんだよなあ。あれたぶんバカだからだと思う。

ほかのコミックやゲーム、アニメなどに対する言及がある、ネットの人が元ネタ探しなどという無意味なことに没頭したがるようなあれというのは、ようするにそれがボケの変形として登場しているのである。あれの何に対して読者が「面白さ」を感じるかというと、本来的には、「作品世界にとって明らかに外部であるものについて登場人物が言及する」から面白いのである。そこで言及されている「作品世界にとって外部的なモノ」に対して、「それは自分たちにとっては内部だと思える人」すなわち読者自身だけが意味を理解できる(そのこと自体がツッコミとして作用する)から、面白いのである。つまり、登場人物たちにとっては、本来無関係で、何のことか全く分からない(そのこと自体が「ボケ」として作用する)ような「外部」なのである。ヘタをすれば、それを言った本人にすら意味が分からないようなものなのである。だから、究極的には、読者にはまさに登場人物たちが自分たちが何を言っているのか理解できないことが面白いのである。例としては「究極超人あ〜る」を思い浮かべるとちょうどいいような気がする。

だから、実はあれは別にオタクネタじゃなくたっていい。あくまでギャグのパターンとしては、倒れそうな家に対して「ハゲのおっさんが設計したんだね」とか登場人物に言わせているスチャラカ世界と変わらないのである。ただ、そこで持ってくる言葉が、オタクネタという、作品世界の外部である現実、のさらに外部である(ということになっている)オタクネタだというだけである。

しかも、もっともよくないのは、もはや登場人物たちが、ほとんどその「外部」を受け入れてしまい、ボケを機能させられなくなっていることだ。ここにおいては2つの事態が発生する。1つには、「作者」と「登場人物」と「元ネタを理解する読者」が「ほかの人には分からないから面白い」というよりどころを感じて共犯的に成立させるサークルが成立してしまい、結果として単なる内輪ノリを築いてしまうということだ。作者と読者と登場人物が全員元ネタに対して同じ位置に立ってしまうと、彼らが求められる「外部」は、もはや「元ネタを理解できない、ほかの読者」しかない。そして、ここで間違ってはいけないのは、もともとこのタイプのギャグというのは、前述したように、決して「ほかの読者にそれが理解できない」ことが面白いわけではないのである。それは内輪ネタにしかならない。彼ら自身の間にはどこにも外部がないのに、外部的だよね、こんなこと誰にも分からないよねと、自分たちの冗談に自分たちでクスクス笑い続けているだけになってしまう。

そして、もう1つには、彼らがそうやってよりどころにするはずの「元ネタを理解できない外部」は、実は彼ら自身のしたことによって喪失してしまう。なぜなら、「ほかの人が知らない○○のことを書いちゃってるから面白い」という分かり方は、個々の元ネタが物語の中でどのように言及されているから面白いのだという理解を遠ざけ、単に「外部的なものに対する言及である」という記号にしかならなくなるからだ。俺は過去に「ドムみたいな女子高生」などという言葉を使って文章を書いたことがあるが、それが面白いのは「ドム」が何か分かるから、だけではない。「外部的なモノに対して言及しているということの理解」自体が「面白さ」を成り立たせているのである。そして今という時代は、彼らがやったこと自体によって、後者に大きな力を与えているのである。

ハヤテのごとく!や絶望先生における「元ネタ」に言及するギャグは、久米田が「ギャグは間口が狭い方が面白い」的なことを言っていたことからも分かるように、確かに作品世界自体よりも現実世界に対して外部であろうとしすぎている。しかし、彼らが、より細分化された、よりディープな、間口の狭い「元ネタ」をバラまいていった結果、それが何であるかという意味は喪失するのである。つまりそれは、ただギャグを型にはめていっているだけである。元ネタが何であろうが、毎度毎度、物語の隙間にはいボケますよ面白いですよ面白いですねと言いながら、意味もなくベタベタとアニメだのゲームだのの話が挿入されているだけである。彼らが「変化球」としてどんな「元ネタ」を繰り出しても、すべて同じものになってしまうのである。それを言うなと言っているのではない。それがなぜ面白かったのかということを忘れながら、次々に○○に入るモノを変えているなんて、ひどく退屈に感じるだけである。それがどうして「間口が狭いから」「面白い」と言えるだろうか。面白くはない。

だから俺はハヤテのごとく!はツンデレがいかにツンデレかということしか面白いと思わないし、それは本当に面白いと思う。そして絶望先生にはそれすらないが、改蔵はよかったけど絶望先生はダメだねという人の気持ちも、やっぱり分からないのである。しかし、ギャグマンガ作家というのは本当に気の毒だ。

 

 

読む男 #64

道士郎でござるが終わっちゃう!

 

 

読む男 #63

10年ぐらい前に立ち読みしたんだけど「ベジータの憂鬱」というジャンプと資本主義について書いた本があったと思ったんだけどあれが読みたくなってしかしネットではそんな本の話は全く見つからない。「ドラゴンボールはいつ終わるのか」というのもあったようだ。これかな?と思ったけどベジータについてはあんまり割いていないようなので違うのかなあ。あのとき面白いなと思ったんだから買えばよかったんだよね金がなかったんだと思うたしか。

 

 

読む男 #62

実は今最先端を走っている少年マンガ雑誌とは「週刊少年ジャンプ」であり、中でも「BLEACH」と「DEATH NOTE」と「テニスの王子様」は白眉なのではないか、という気がしてきた。ブリーチはムチャクチャだ。なんかカッコつけてバーンと勝っているだけである。挽回、卍解か、変換できるかっつうのこんなの、卍解を、かなりスゴい超能力的ワザだったはずのそれを、誰でもできるやんけという世界になってきた。これは、パクリがどうこうという問題を越えて、聖闘士星矢やドラゴンボールと同じ構造を持っているのであり、これこそ少年マンガ的なのである。全然調べてないけど、たぶん2000年〜2003年あたりは、熱血な少年マンガのカウンターとして発想されたマンガがどんどん作られて、一定の成功を収めていた時期なんだと思う。で、ここ1〜2年の状況は、そして今のジャンプは、その時代からさらに次のレベルへ移行しているのではないだろうか。今のジャンプの「すごい」マンガについては、設定が矛盾しているとか、展開がワンパターンだとか、ネットにもお定まりのみんな知ってる例の論調で面白おかしく書いてあるが、そういうツッコミ自体がもう退屈なものになり(もちろんそれから価値が失せたとは言えないが、私たちは「今」それに飽き始めていると思うっつーか飽きてない人は幸せだし、昔を知らない世代にとってはどうでもいいことになっている)むしろ少年マンガとはそういうものなのだという自負すら感じる。感じるにもかかわらず、しかし、驚くべきことなのだが、ブリーチに限らずデスノートもテニスもそうだが、90年代中頃から00年代にかけて複雑な経緯を辿った少年マンガの物語性の、それ自身への回帰を、おそらく作者自身は全く意識してなんかいないのである。それは推理モノでありながら推理を捨てている「ネウロ」もそうだと思う。彼らは間違いなく、そんなことはどうでもいいというより最初から考えていないのであって、そういう意味では冨樫とかとは別のベクトルが働いているというか、ハンターハンターの最初に冨樫がやりたかった「マンガ」をふつうにやれてしまうのが「今」のマンガなのである。んで、デスノートがそういうマンガの1つだというのはそれが分かる人には非常に簡単な話だと思うんだが、あれをいまだにギミックに満ちたライトノベル的犯罪マンガだと思って読んでいる人は間違っている。別の意味においてその評価は当たっているんだけど。

なぜ「全然調べてないけど、たぶん2000年〜2003年あたり」と書いたかというと、シャーマンキングが人気があったのがそのへんだろうと思ったからだ。あと、関係ないけどおずっちの好きなガウガウわー太sがようやく再開するらしい。12月9日。どうでもいいけどこの新雑誌がらみのウェブサイトは本の内容が判然としないものばっかりだ。なんだかなあ。

XPの機械を再インストールして以来、opennapにおいてなぜかポート0状態だったのだが直ったっぽい。何だったんだ。

 

 

読む男 #61

微妙に関係ないけど、「炎の転校生」を読んでいたら個人の集まりの人たちがいてちょっと面白かった。俺たちは徒党を組んでなんかいないんだ!!

 

 

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